五人組制度

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近世の村は、その社会において重要な位置にあり、次節で述べる年貢収納においても、村を基本の単位として行われた。これが村請制といわれるものである。村請制は、年貢の収納のみならず、あらゆる夫役の調達や村内の治安維持にいたるまで、すべてが村を基本にした連帯責任制がとられていた。その村は中世的な系譜を引く村落ではなく、近世に入って村切りがなされ、これらの単位となる村が作られた。この村請制を実現するためには、幕府や領主の役人が村の中に介入することはせず、その一切を、村の有力農民を村役人として、村内の実務とともに、すべての責任を負わせるようにした。つまり、彼らに村内の農民支配を任せたのである。
 一般に村役人には、村方三役と呼ばれる庄屋・年寄・百姓代がいた。
 庄屋は一村一人が原則で、年貢収納、領主の命による諸調査の施行、諸帳簿の作成など多岐にわたる任務が責任とともに与えられていた。庄屋の下には、それを補佐する年寄がいた。百姓代は、文字通り本百姓中より選ばれ、庄屋・年寄の監視役であった。
 石部町域の場合、町域に残る多くの史料に村役人の概要をうかがうことができる。東寺村では、庄屋・年寄・(惣)百姓代・組頭・肝煎(きもいり)などとその呼称もさまざまで、庄屋の名前などを見ても数年で交替している者も多い。こうした点からするとひとつの中世的系譜をもつ土豪(どごう)層が庄屋として存在せず、持高も同規模の階層が多いことから、たびたび交替していたと考えられる(『東寺地区共有文書』)。
 そして、村役人とともに村請制を支える自治組織として、五人組制度がある。これは原則的に本百姓をもって、地縁的つながりで構成され、村民自らの連帯責任を認識させるものでもあった。毎年五人組改めがなされ「五人組帳」が作成された。そこには幕府の定めた、こと細かな一般的な規制、すなわち農民が守るべき法度(はっと)とともに、その構成員の名前が記された。残念ながら本町域には「五人組帳」が残っていない。そこで、東寺村に出された近世後期のものとみられる「定書(さだめがき)」の中に、五人組に対して要請されていたことの一端がうかがえるので少し紹介しておこう(『東寺地区共有文書』)。
一、切支丹宗門、弥(いよいよ)吟味を遂げ、村切に名主・五人組宗旨手形取り置申すべき事

一、盗賊・悪党の族(やから)これ有るは、これを申し出るべし、縦(たとへ)同類たりといふとも其咎(とが)をゆるし褒美(ほうび)出すべし、常々村切にこれを改めるべし、若(も)し隠し置くにおいては、庄屋・五人組迄曲事(くせごと)たるべき事

 このように、切支丹(きりしたん)宗門改めの条目をはじめ、盗賊・悪党詮索(せんさく)の条目など、これ以外にも農民の集団蜂起禁止の条目がいずれも五人組の連帯責任としてあげられている。

写85 長屋門(西寺 竹内淳一氏宅内) 門の両袖が長屋になっているのが特徴で、武士の邸宅や、庄屋クラスの農民の屋敷にもみられた。竹内氏宅の長屋門は製茶にたずさわる人たちの住居として用いられたことがあり、近年になって修理、増改築をされているものの、内部には「萬延」(1860ごろ)の年号などの落書が残されている。

 また、天明六年に膳所藩主本多康完(やすさだ)の「定書」の中にも、その一端がうかがえ、当時その支配にあった石部村にも下されたと思われる(『膳所藩資料館所蔵文書』)。その中にも、五人組に要請されたこととして農耕地の維持や犯罪人の相互監察などがあげられている。
 こうして条目化されたものはもちろんのこと、こと細かな日常生活の規範にいたるまでが、いわゆる「五人組帳前書」といわれるものに整えられ、村役人が寄り合いで読み聞かせるなど、すべての農民に周知徹底が図られたのである。