膳所藩では、慶安四年に本多俊次が藩主になると、民政の基調ともいえる定書を支配する村々へ出した。その定書の内容も、農民生活の細部にわたるもので二九ケ条からなっていた(『新修大津市史』3・4、『草津市史』第二巻)。そしてそれが基本となり、藩主の代替わりごとに条目の加筆修正などがなされて受け継がれていくのである。内容は公儀の法度の遵守(じゅんしゅ)・切支丹の禁止など幕府の民政上の基本となることから、火元の確認・年季奉公に出るときの注意など日常生活の細部に至るまでのことが記されている。また、天明六年の本多康完の下した定書にはこうした条目に加えて、特に領内の宿駅である草津・石部両宿に対して四ケ条が追加されている(『膳所藩資料館所蔵文書』)。それは、公儀の荷物をはじめすべての荷物の継ぎ立ては遅滞なく行うこと、宿駅に対する幕府の触書は遵守すること、往来の旅人に対して問屋・馬方・駕籠かきなどの不法な行為の禁止、旅人の荷物を紛失しない、もしも不法な行為があれば宿役人も処罰する、といった内容のものであった。
また、東寺村に出された近世後期のものと思われる定書にも、村の治安維持や年貢納入の連帯責任など、細かな点が説かれていた(『東寺地区共有文書』)。このように農民は幕府や藩、さらに村といったさまざまな支配機構、自治組織の中で、数多くの規制のもとに置かれ、日常生活を送っていたと推測できる。
写87 本多康完定書 天明6年(1786)、膳所藩主10代本多康完が出した定書。草津・石部両宿には特に4ケ条を追記しているのが特徴(膳所藩資料館所蔵)。