延宝検地の実施

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先に触れた慶長検地は、当初関東が中心であったが、次第に畿内の天領などでも実施されていった。そしてその後も幾度かの検地が実施されているが、慶長検地に次いで実施された大規模な検地が延宝(えんぽう)年間(一六七三~八〇)に実施された延宝検地である。この寛文から延宝期にかけては、一般的に所持高一〇石以下の小農(しょうのう)といわれる層の展開がみられ、その経営も家族を中心としたものに変化しつつあった。そこでこれらの小農層を年貢賦課の中心として位置づけるために検地を実施した。
 この延宝検地を新検というのに対して、先の慶長検地を古検と称する。この延宝検地が新検と称されるのは、慶長検地などに比して時期的に新しく実施されたということのみの呼称ではない。新検と称する所以(ゆえん)は、延宝以前の検地が六尺三寸を一間として行われたのに対し、延宝検地からは六尺を一間の統一基準に改められたことによっている。一般的には、ここに至ってようやく畿内でも関東と歩調を合わせるだけの支配体制が確立したと考えられる。
 石部町域三ケ村の慶長検地帳では、いずれも最後の部分に「京升(きょうます)也」と記入されており、石盛計算が古い形態の京升によってなされていた。また、東寺村の慶長検地帳が「東寺村古検地帳」とみえることなどから、石部町域の村々でも新検・古検といった呼称が用いられていたことがわかる(『東寺地区共有文書』)。