東寺村の延宝検地

302 ~ 304ページ
石部町域には延宝二年(一六七四)の検地帳が残っている。そこで東寺村の延宝検地を通して、寛文・延宝期の村落構造をみておこう。

写88 延宝検地帳 「江州甲賀郡東寺村田畠地改帳」は、延宝2年(1674)作成の検地帳であり、石部町に残されている唯一の延宝検地帳である(『東寺地区共有文書』)。

 まず、表8は延宝検地における東寺村の農民の所持高別階層構成を示したものである。この時期に村の中心をなしているのは、所持高が五石から一〇石程度の農民で、村全体の約半数を占めている。これらの階層は、大半が屋敷地をも所有しており、農業経営も夫婦や子供からなる直系の家族構成で行っていたとされる。まさに「慶安御触書(けいあんおふれがき)」にみる「夫婦かけむかいの百姓」といわれるものである。こうした実際の村落での階層構成をうかがっても、当時小農といわれる階層が一般化し、そして彼らが村を構成する中心的位置を占めるようになってくることが知れる。繰り返せば、幕府はこの延宝検地の実施を小農層の把握と年貢収取の安定といった点にねらいを置いたのである。
表8 延宝期における東寺村の農民階層構成
持高名請人数
15石以上2(2)
10石~15石未満6(6)
5石~10石未満21(20)
3石~5石未満6(5)
1石~3石未満2(0)
1石未満7(1)
合計44(34)
( )は屋敷をもつ名請人数。「江州甲賀郡東寺村田畠地改帳」『東寺地区共有文書』より作成

 次に、図39は古検と新検の各田品ごとの耕地構成を比較したものである。上田と上畠の面積の増加と、永荒地の減少(荒地の田品をなくしている)という点が目につく。このことは斗代(とだい)の高い上田・上畠面積の増加によって、より多くの年貢の収取をねらったものである。また、延宝検地帳の末尾の「奥寄せ」には、古検からの反別・村高の増減の理由が書かれるのが一般的であるが、この東寺村の延宝検地帳にはそれが記されていない。また、新検の出目(でめ)高(前の検地より増加した高)も記載がない。東寺村の場合、図39でみたように総面積では十数町の減少となり、村高はごくわずかであるが七升の増加となっている。面積の減少は各田品にあった荒地の整理によるもの、またそれらが石高に影響がみられないのは、生産力の向上によるものと推察できる。

図39 東寺村の耕地構成
「東寺村古検地帳(慶長検地帳)」「江州甲賀郡東寺村田畠地改帳(延宝検地帳)」『東寺地区共有文書』により作成

 ではもう一点、検地の斗代についてみてみる。表9は、延宝二年の東寺村と慶長七年の三ケ村における検地の斗代を示したものである。延宝検地での東寺村の田畠の斗代が幾分低いことと、石部村の慶長検地が他村に比較してわずかにその斗代が高く置かれている点が目につく。これは慶長検地が検地奉行によって統一的に実施されたという反面で、その検地奉行が地域的な事由によっての若干の裁量を働かせたことによるものである。さらに延宝検地では、検地奉行の指示で実際は在地の領主が実施したため、幾分かの差も存在したと考えられる。こうして決定された村高の把握は、あくまで領主側のものであって、実収高は、それをはるかに上回るものであったと考えられる。
表9 慶長検地・延宝検地の斗代
年代延宝2年慶長7年
村名東寺村東寺西寺石部
田品
上田1.51.51.51.6
中田1.31.31.31.4
下田1.11.11.11.1
上畠1.11.51.21.1
中畠0.91.31.01.0
下畠0.7-0.80.9
屋敷1.11.41.21.1
『東寺地区共有文書』・『竹内淳一家文書』・『石部町教育委員会所蔵文書』