先に触れた農民に対する種々の規制の中にも上げられていたように、幕府領をはじめ大名領の領主の側からすれば、支配する村々からいかに多くの年貢を取るかが最大の関心事であった。江戸時代の年貢は、大きく本年貢と雑税に区別される。本年貢というのは、田畑や屋敷地に対して賦課されるもので本途物成(ほんとものなり)といった。一方雑税は小物成(こものなり)や運上(うんじょう)金・冥加(みょうが)金といわれるものがあり、山林原野や河川沼沢などの用益や産物などに対して賦課される。これらの年貢は、先述した検地の実施に基づいて作成された検地帳を基本台帳とし、検地によって確定された村を単位として課せられる。実際には村に課せられた年貢は、さらに農民一人一人に賦課されるのであるが、もし未進者があれば、農民支配の最下部の単位でもある五人組、ひいては村全体の連帯責任とされた。これが近世社会の特徴のひとつでもある年貢村請制といわれるものである。
実際の年貢賦課の方法は、領主の派遣する検見(けみ)役人が村に来て、毎年の作柄を検分する検見取法と、その村における過去数年間の平均収穫量を基本として、一定期間の年貢率を決定する定免(じょうめん)法とがあった。これらの方法によって決定された年貢高は、免状とか下札(さげふだ)といわれる年貢割付状によって村へ割り付けられる。