年貢納入の実際

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西寺村では、寛永十一年以降の「年貢割付(わりつけ)状」が残されており、その内容は村高と取米(とりまい)(年貢高)が記されている程度のものであった。しかし、時代が下るにつれてその内容も詳細になっている(『竹内淳一家文書』)。また、東寺村では延宝五年(一六七七)から幕末までの「年貢割付状」が残されている。その中から、少し長文であるが天明二年(一七八二)の「年貢割付状」を引用しておこう(『東寺地区共有文書』)。

 


写89 年貢割付状 (『東寺地区共有文書』)

    丑年免定之事
 検見取        近江国甲賀郡
 一、高四百三拾弐石七斗五合     東寺村
     此訳
   田高三百六拾三石壱斗五合
     百三拾九石壱斗  前々溝敷本帳面永荒引
   内
    六石九斗五升九合 前々川欠石砂入引
   残高弐百拾七石四升六合
    此取米六拾壱石六斗壱升九合
      内
    高弐百拾六石弐斗九升六合  本田
     此取米六拾壱石六斗四合 免弐ツ八分四リ八毛余
    高七斗五升         去ル 戌起返
     此取米壱升五合     免弐分
  畑高六拾九石六斗
   内四斗四升     前々川欠引
   残高六拾九石壱斗六升
    此取米弐拾四石五斗弐升弐合
      内
    高六拾三石七斗弐升六合   本畑
     此取米弐拾弐石三斗四升八合 免三ツ五分七毛内
    高五石四斗三升四合     屋敷
     此取米弐石壱斗七升四合  免四ツ
   取米合八拾六石壱斗四升壱合
       納訳
     弐拾八石七斗壱升四合 三分一銀納
     五拾七石四斗弐升七合 米納
 石原清左衛門方ニ而相極候条村中大小百姓入作之者迄立会無高下可令割賦者也
   天明二寅年三月 多縫殿印
                  右村
                     庄屋
                     年寄
                     惣百姓
 まず最初に、村高四三二石七斗五合と村名である東寺村が、その肩部分に年貢賦課の方法、つまり検見取法であることが記されている。そして、その内訳が記される。田高三六三石一斗五合、そこから溝敷(これは溝の分で永年にわたり賦課の対象としない)として一三九石一斗と、川切れによる土砂流入の引高六石九斗五升九合が賦課される高から引かれる。その残りが二一七石四升六合、その取米(年貢)が六一石六斗一升九合である。さらにその取米の内訳が記される。二一六石二斗九升六合が本田で免(年貢率)二八・四八パーセント、安永(あんえい)七年(一七七八)の起返(おこしがえし)が七斗五升で免が二パーセント。同様に畑高も記される。免は本畑が三五・七パーセント、屋敷が四〇パーセントである。そして合計の年貢高が八六石一斗四升一合で、そのうち三分の一にあたる二八石七斗一升四合が銀納、残りが米納であったことを記している。
 そのほかの免状では、小物成の年貢についても記されているものもある。例えば、天明七年の免状では、米三斗六升五合が井堰山年貢、銀三六匁が草代、銀三匁が水車運上、米二斗六升が御伝馬宿入用などがあげられている(『東寺地区共有文書』)。また西寺村では、例年山年貢として、その高一石六斗に対し定免五ツ(五〇パーセント)で取米八斗が上げられている(『竹内淳一家文書』)。
 そして、最後の部分には「村中大小の百姓、入作の者迄立ち会い高下(こうげ)なく割賦せしむべきもの也」と記され、年貢が村全体に賦課されたことを示し、このあと村中の耕作者の所持反別を記した「名寄帳(なよせちょう)」をもとに一人一人に割り当てられた。その個別の割り当てを書きとどめたものが「年貢小割帳」といわれるものである。東寺村の場合、この免状が出される年の二月、出作入作の者を含めたすべての村人が集まり「御年貢割納方之義」を決定している。そしてこれ以後、すなわち先にあげた免状による年貢の割り付けからは、この時の割り付けが適用されるとして庄屋・年寄・百姓代・組頭ほか五〇人が署名・捺印して信楽代官所にあてて申し入れている(『東寺地区共有文書』天明二年「差上申一札之事』)。このように個人に割り当てられると、原則的には耕作者が納めるが、仮に病気などによって納入できない場合や、耕作者の逃散(ちょうさん)などの場合は、その多くは五人組が代わって年貢を納入するなど、徹底した連帯責任制がとられていた。
 このように割り当てられた年貢は、免状の末尾に、極月(ごくげつ)(十二月)十日までに必ず納めること、といった内容の文言が入っているものもあり、その日までに領主のもとへ納められる。その輸送も村人の負担であった。東寺村の場合、天保六年(一八三五)の「村明細帳」に「年貢米津出シ之義、矢橋(やばせ)浦(草津市)迄四里半(中略)夫(それ)より湖水一里舟渡シ仕り、大津え登る」とあることや、寛政六年(一七九四)の村入用帳に、矢橋港までの輸送経費が記されていることから、石部から陸路で草津へ、草津からは湖上を大津へ運ばれていたことがわかる(『東寺地区共有文書』)。
 次に村へ割り付けられた年貢が領主のもとへ納められると、「年貢皆済目録(かいさいもくろく)」がくる。これは、先の天明二年の免状に対して出されたもので長文ではあるが、全文を引用しておこう(『東寺地区共有文書』)。

 


写90 年貢皆済目録 (『東寺地区共有文書』)

    去丑年皆済目録
  高四百三拾弐石七斗五合 江州甲賀郡
 一、取米八拾六石壱斗四升壱合     東寺村
     此訳
    弐拾八石七斗壱升四合 三分一銀納
     此銀壱貫七百五拾九匁六分五厘 但[壱石ニ付 銀六拾壱匁弐分八厘弐毛]
    四斗七升       寺社寄附米
    五石         草津宿渡米
    五拾壱石九斗五升七合 米納
     外
 一、米弐石五斗八升四合   口米
    此銀百七拾壱匁弐分七厘 但[壱石ニ付 六拾六匁弐分四厘弐毛]
         子ゟ辰〓五ケ年季
 一、米三斗四升       小物成
    此銀弐拾目八分四厘   但[壱石ニ付 六拾壱匁弐分八厘弐毛]
 一、米壱升         口米
    此銀六分六厘      但[壱石ニ付 六拾六匁弐分八厘弐毛]
 一、銀三拾六匁       小物成
 一、銀三匁         水車運上
 一、銀壱匁壱分七厘     口銀
 一、米弐斗六升       御伝馬宿入用
    此銀拾五匁九分三厘   但[壱石ニ付 六拾壱匁弐分八厘弐毛]
 一、米六斗八升四合     六尺給
    此銀四拾壱匁九分弐厘  但右同直段
 一、銀五拾壱匁弐分八厘   御蔵前入用
    米五拾七石四斗弐升七合
  納合銀弐貫百壱匁七分弐厘
右者去丑御年貢米銀其外書面之通令皆済ニ付小手形ニ引替遣之者也
   天明二寅年三月 多縫殿印
                      右村
                       庄屋
                       年寄
                       惣百姓
 まず最初に村高とその年の取米、村名が書かれている。そして、その後に「此訳(このわけ)」として三分の一銀納分二八石七斗一升四合(銀にして一貫七五九匁六分五厘)、寺社寄付米四斗七升、草津宿渡米五石、残り米納分五一石九斗五升七合が記されている。さらに本年貢以外の小物成などの内訳が書かれる。御伝馬宿入用(五街道の宿駅の費用)・六尺給米(江戸城中の雑人夫の給米)・御蔵前入用(おくらまえにゅうよう)(幕府の浅草御蔵の維持費)の幕府直轄領にかかる高掛三役(たかがかりさんやく)というものも納めている。最後に総計米五七石四斗二升七合と銀二貫一〇一匁七分二厘を納めたとされている。つまり先の免状にあった年貢高を完納している。年貢皆済目録は年貢を完納した際、引き替えに出されるものであることは原則であるが、しばしば年貢割付高に満たなくても、この年貢皆済目録が出されている場合もある。