次に具体的に西寺村と東寺村の年貢についてみていこう。
図40は西寺村の引高と免および取米(年貢高)の推移を示したものである。たとえば明暦(めいれき)元年(一六五五)の場合、村高三四五石二斗八升に対して引高一〇石二斗三升、毛付高が三三五石五升、免五ツ八分で年貢高が一九七石五斗七升となっている。図40を概観してみると、村高はおおよそ三四五石余で一定している。毛付高も三〇〇石を割ることはない。また免は高い時で六一パーセント、定免になると四八パーセント前後になっている。年貢高についてもあまり大きな変動はみられない。このようにみると西寺村の場合、年貢皆済目録が残されていないのでこれらが完納されたかどうかが疑問であるが、比較的生産力の安定していたことを示しているといえる(『竹内淳一家文書』)。
図41は、東寺村での同様の推移を示したものである。元禄十二年(一六九九)からは免に安定がみられ、先述した定免法の実施が裏づけられる。しかし、寛延期からは免に変動がみられ、宝暦(ほうれき)六年(一七五六)には三六パーセントにまで下がっている。その年は当然のことながら年貢高も大幅に低く、それまでの約半分程度にまでなっている。これは災害などによるものと考えられ、収穫が大幅に減少したことを物語っている。その年の免状をみても二五〇石余の引高があり、賦課される毛付高の一・四倍にも相当する。このような場合、定免法ではその定免を破棄して検見が行われるのである。東寺村のこのころの検見取法は、免状などをみると、田畑などの位付けにかかわらず、本田・本畑といった形で賦課されていることから有毛検見取法がとられていたと考えられる(『東寺地区共有文書』)。
年貢の納入については、近世が「米遣(づか)いの経済」といわれるように、原則的には米で納められたが、後に次第に銀納といった形もとられるようになる。西寺村の場合、当初はすべて米納であったが、享保年間ごろから三分の一銀納がとられている(『竹内淳一家文書』)。東寺村でも、免状をみていくとほぼ同時期の寛保年間から三分の一銀納がとられたと考えられる(『東寺地区共有文書』)。