これらの自治組織や慣行を運営・維持するための財政は村で負担し賄うことを認められていた。それが一般に村入用といわれるもので、史料的には「村入用帳」などという形で残されている。表13は、東寺村における寛政(かんせい)六年(一七九四)の村入用である(『東寺地区共有文書』)。五石九斗五升が庄屋・年寄をはじめ組頭・状使・御林山番の給米、銀八九匁三分が年貢上納の際の出張費などといったいわゆる人件費、そして諸帳簿作成のための紙・墨代、会合費、村の寺社祭祀(さいし)の経費が主なものである。後の文政年間のものもこれとほとんど変わりはない。これらは現在でいう町内会運営費のようなもので、個人の持高一石に対して寛政六年の場合、米一斗八升三合九勺三才などといった負担によって運営されていた。
猪鹿さきかけす取□□猟師入用共 | |
合2貫606匁4分3厘 | |
いままでみてきたように、「村明細帳」をはじめ、「五人組帳」・「宗門改帳」など数多くの文書が村で作成され、それに要した費用も少なくはない。つまり領主は行政上の必要からかなり多くの文書の作成を村に要請していることがうかがえる。また、村役人といわれる庄屋・年寄などは、毎日がそれらの書類・帳簿の作成とその行政の運営に追われていたと推察される。幕藩体制のなかにおいて、村は支配の側からの最下層の行政単位としての位置づけと、一方で村としての独立した共同体的位置を認識しつつ運営されていたと考えられるのである。