覚
一御地頭様より前々仰出し置かれ候親々へ孝行致し、夫婦の間むつまじくして農業出精大(第)一に致すべき事
一村方男女老若とも常々身の廻り不相応の出立(いでたち)相見へ候間、此義相慎み、盆、正月、祭礼、草木等にも只手作の草履、冬は手拭、木綿の足袋、下駄、花苧こかし苧より不相成雪踏堅く無用の事
一男女子供まで帯、袖口、えりにも絹布類共致すまじく事
一参宮入陽(湯)養生に付、他行留主(守)見舞法度の事
一大工見舞、病人見舞、遣い物法度の事
一祝言、嫁取、むこ取、振舞、座敷絹布法度の事
一年忌法事、嫁取、むこ取等も今迄親類の内も拾人も呼候振舞は五人にて済し、五人呼候振舞は二人にて済し候様相心得、万事質素に取計らい、馳走がましき事致すまじく事
惣体の祝儀、進物等、是迄の半分に請遣い致す事
一初産神入等、右通り相心得取計らい致し候事
一産屋餅配り法度の事
一祭り草木の茶の粉餅法度の事
一十一月一日の餅つき法度の事
一正月儀式鏡餅は先規の通りに致すべき事
一正月門礼先規の通り、年酒法度の事
一家作り、土蔵作り、門の類、新規に思立ち候ハバ、前広に役人へ相談の上取掛り致し申すべく候、近年おごりの時節故、分限をわすれ不相応の普請等致し心得違いにてかえって難儀致し候事もままこれあること故、以後承知致し候事
(以下略)
写93 村定(覚) 村民全員の守るべき箇条を書き上げ、村の庄屋・肝煎(きもいり)に宛てて41人が署名捺印して提出したもの(『竹内淳一家文書』)。
この村定は生活全般にわたって質素にし、家作普請なども近年おごりがましいので必ず村役人と相談して取りかかるよう村民一同が連名署判して確認し合ったものである。
ところがその後九尺に一間の瓦棟灰小屋を村役人に相談もせずに建て、また火の用心のためといって一間半に二間の瓦葺の土蔵の普請を願い出る者が現われ、村役人がこれらの普請を認めなかったことから村方騒動にまで発展した。
西寺村の戸数は四三軒あり、若徒組と平方組という上下の階層があった。四三軒のうち三五軒は若徒組で「常楽寺中二十四坊の末の者共ならびに往古士分の者の儀、村方にて名主」といい、庄屋は大高持百姓から、肝煎(きもいり)は中高百姓からそれぞれ入札によって選ぶ。また百姓代は組頭が務める。他の八軒は平方組であり、「前々より家来筋または他村より罷越候者平百姓」といい、村方足役勤といって村役人が御用向で出向くときは供をし、村方より人足賃をもらい、また勧化などの荷物を送り出すなどの役にあたる。そのため八人のうちから一人順番に組頭を務める。
家作普請については、若徒組の中にも門構えのできる家で瓦葺の両扉、瓦葺であるが扉のない門、瓦葺引戸の門といったように家によって門構えにも差があった。一方平方組の者は傘、燈灯の紋入、裃着用、門縁、棟瓦、瓦通庇、瓦葺の土蔵などは認められず、また村寄合では上席は許されなかった。
文化十一年(一八一四)の「乍恐以口上書奉申上候」(『竹内淳一家文書』)によると、平方組の者が「瓦棟、瓦の通り庇(ひさし)等前々より留置」かれたこと、さらに「村役人出淀(淀表に出向く)の節は荷物持たせ、供致させ筋にて、此儀を深く悔」いたため、平方組のもの七、八人が団結して「村法を破りたく願い申候故村方の騒動」になったのだとしている。さきに記した村法は、平方組の村法を打ち破ろうとする空気を若徒組側が感じとったために、村民一同が改めて確認し合うかたちをとって、平方組の動きを封じようとしたのではないかと思われる。
瓦棟灰小屋の場合では、西教寺の住職が仲介し、村法を守るべく詫証文を出して落着した。しかし瓦葺土蔵の場合では、この普請を願い続け、ついに淀藩の裁決を仰ぐこととなった。淀藩としては変革を望まず、厳重に村法を守るよう裁決を下した。そのためいったん詫証文を入れたもののなお瓦葺土蔵の普請をあきらめきれなかった。この間願出人は観音講からはずされ、これまで観音講田のうち半俵以上の作徳で講をつとめてきたが、この作徳も渡してもらえなくなってしまった。さらに息子の妻も実家へ帰ってしまった。これではとても村内での生活もできないとして家出人を出すにいたった。この家出は親、親類も承知の上で金毘羅参りにでも行くつもりで周辺を徘徊するというものであった。いわば家出というかたちでの抵抗であった。この家出のため村内はいっそう混乱に陥ったが、ともかく平方組のねばりが実って、大庄屋の仲介で一間半に二間の瓦葺土蔵の普請が認められた。但し村法の他の箇条は守り、今後平方組のこのような申し出は認めないとの合意が成立して、数年がかりの瓦葺土蔵一件が落着したのである。
この瓦葺灰小屋、瓦葺土蔵の普請に始まる村方騒動は平方組の抵抗であったといえよう。村法を打ち破ることは容易ではなかった。しかし村内の身分階層の秩序が解体される萌芽(ほうが)をみる思いがする。