鉄砲と農具

329 ~ 331ページ
先に述べたように豊臣政権のもとで行われた兵農分離政策の一環であった刀狩で、農民から刀・脇指・槍・弓などとともに鉄砲も取り上げた。しかし江戸時代においてもなお全国的にかなりの鉄砲が保有されていた。
 村々に保有される鉄砲は武器としてではなく狩猟で渡世をしている者や田畑が畜類に荒らされることの多い村、あるいは新田開発などには鉄砲の所持や使用が許された。しかし当然幕府や藩は村々にある鉄砲の数とその持主を調査し取り締まりを行なった。
 幕府は寛文(かんぶん)二年(一六六二)以来延宝(えんぽう)三年(一六七五)、同四年(一六七六)とたびたび鉄砲取り締まり令を発した。このころの鉄砲取り締まりは主として関八州を中心にしていた。鉄砲の所持が許されている所でも猟師のほかは鉄砲を所持してはならなかった。そしてその所の地頭、代官が郷村ならびに鉄砲所持者の名前を書いた札をその者に与える。つまり狩猟を生業とするものに与えられる猟師鉄砲に限られた。
 貞享(じょうきょう)五年(一六八八)、幕府は全国的な鉄砲取り締まり令を発して、猟師鉄砲のほか実弾の発射が許される用心鉄砲や、空砲だけのおどし鉄砲など、領主に領内の村々にある鉄砲を調べ報告させた。このころ西寺村では何梃(ちょう)かの鉄砲を所持していたらしく、貞享五年の「指上ケ申一札之事」に「今度鉄砲御改の儀につき、村中所持仕り候鉄砲書付指上げ申し候」とある。それから九年後の元禄(げんろく)十年(一六九七)の鉄砲改めのとき西寺村では三梃の鉄砲が所持されていた。
                                   近江国甲賀郡西寺村
 一鉄砲一梃玉目三匁                                  持主利兵衛印
 一鉄砲一梃玉目二匁八分                                持主八左衛門印
 一鉄砲一梃玉目三匁                                  持主善兵衛印
  右の鉄砲持主五兵衛、元禄四未年相果て申し候につき、御願申し上げ善兵衛所持仕り候
  合鉄砲三梃
  右鉄砲持主死失候ハバ、早速鉄砲差上げ御断り申し上げるべく候、以上
                                          西寺村庄屋忠左衛門印
   元禄十年丑(ママ)夘月日                            同村肝煎九兵衛印
                                           同村組頭久兵衛印
                                           同 善太郎印
                                           同 孫兵衛印
                                            次に小百姓名判
  御奉行様                                    代官青木勘三郎印
 
 鉄砲所持者三人のうち善兵衛が所持している鉄砲はもと五兵衛が持っていたもので、元禄四年に五兵衛が死去したためいったん藩へ差し出し、そして改めて下げ渡すという手順をとっている。この鉄砲改めはさきの貞享五年の公儀による鉄砲改めとちがって藩の御改めである。当村は畜類が多く出て作毛を荒らすので、おどしのために玉を込めずに打ち悪事や殺生はしない。また他人はいうにおよばず親子兄弟といえども本人以外の者に貸すことはしない、という誓詞を述べて請書を出している。
 東寺村でも享保十年(一七二五)の請書では五梃の鉄砲が保有されており、西寺村の請書と同様の趣旨が書かれている。
 いずれにしても西寺、東寺両村とも田畑の作毛を畜類から守るためのおどしの鉄砲であり、いわば農具のひとつとしての鉄砲であった。