幕府の遊興取り締まり

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先にみたように村の生活では、朝は早く起き、耕作にはげみ、家内むつまじくして生活を乱さないことが要求された。寛政(かんせい)十一年(一七九九)の法令に「遊興惰弱(だじやく)よからぬ事を見習、自然と耕作にも怠り候」(『御触書天保集成』下)とあるように遊興にふけることは耕作を怠りひいては一家離散の原因になるというのが幕府の考え方であり、その立場からしばしば芝居興行を取り締まった。天保の改革で幕府は森田、中村、市村の三座を浅草に移転させるとともに、よからぬ風俗は芝居をまねるからであるとして旅役者が府内で興行すること、ならびに旅役者を招いての興行の禁止を全国的におよぼした。
 一方相撲興行には喧嘩、口論がたえないことから慶安(けいあん)元年(一六四八)に辻相撲、勧進相撲が禁止された(『御触書寛保集成』)。しかし貞享元年(一六八四)にいたって雷権太夫の再三の願いにより勧進相撲が許可された。寛政(かんせい)三年(一七九一)に将軍の上覧相撲が催され、またこのころ谷風、小野川、雷電の名力士が輩出すると勧進相撲の人気がしだいに上っていった。