しかし、なんといっても表15で最も注目される点は、三ヶ村の全林野面積の約五八パーセントにあたる三五六町歩余が村中分(村山)であることである。ことに東寺村では全村林野の約八二パーセントが立会林(村共有林)である。その立会林の村山は、江戸時代の林野所持の実態がそのまま明治に引き継がれたもので、石部町林野所有の特徴を示していたといえよう。
それは、浅木林といった立木の商品化に期待できない林であったとはいえ、それらの山林は、燃料である薪炭(しんたん)の供給源として、または「村中草柴苅、田作之肥し仕来り候」下草山として、石部町農民の生活上重要な林であったのである。そこに村中立会林(村入会林)の多い実状があったと思われる。
また、竹林(竹藪)も三ヶ村で七町七反歩余の面積があがっているが、それは承応(じょうおう)二年(一六五三)九月の西寺村百姓共「定(さだめ)」に、「風を防候為にも…田畑に成難き所には合壁に竹木植申す可く候」とあって、防風や土砂止めを目的に、山裾の斜面や谷間を対象に、江戸初期から竹が盛んに植栽されていったことによるものである。
浅木や竹林が混生する林の大半を村立会林が占めるといった石部町の林野にも、個人持ちや数人持ちの立会林に数ヶ村立会林(村々入会林)、そして寺社の除地林など、各種の林が所在したが、一方には、領主の利用林である「御林山(おはやしやま)」も存在していた。そこで次に御林山について述べておこう。