御林山と御留山

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御林山は別に「御立山」または単に「御林」「御山」とも呼んで、幕府や藩の利用に限られた林をいい、普請用材の確保を目的に設定されていたのである。
 石部町では、元禄(げんろく)六年(一六九三)三月の東寺村領「内山一札」によって「御林」の存在していたことが知られる。次の一札がそれである。
     東寺村領内之内山内
 一、たて五町よこ壱町四間      横尾山
    右ハ殿様御林小松山
 一、たて弐町よこ壱町半       寺手山
    右同、御林松山
 一、弐町半よこ壱町半        井手山
  右三ヶ所御地頭様御留(おと)メ山ニて御座候
   元禄六年酉ノ三月五日
             東寺村 庄屋 又右衛門印
                 年寄 権右衛門印
                 惣代 忠右衛門印
   御奉行様          同  伝右衛門印

写96 東寺村領内之内山内(『東寺地区共有文書』)

 横尾山と寺手山は殿様(膳所藩主本多康慶(やすよし))の御林とあって、しかも小松山・松山と林の種別も示されているが、井手山についてはその記載がない。それはすでに、横尾山と寺手山が御林山に指定されていたその上に、井手山を加えての「御留メ山」の指定であったからであろう。
 「御留山」は、領主の山林保護や狩猟を目的に入山や樹木柴草の伐採を禁止した林をいうが、なかには農民の争い山を領主の管理下に置く御留山もあった。
 東寺村領内の「御留メ山」指定の理由は明らかではないが、縦・横の間数から計算すると、三ヶ所で約一四町五反歩ほどになる。しかし、その後の享保(きょうほう)二十年(一七三五)九月の東寺村「願上書」では、御林山は広野山と六方山の二ヶ所に改正をみている。広野・六方の両山が、先の横尾・寺手両山にあたるのか、それとも御林山が変更となったのか、明らかでないが、寛延(かんえん)三年(一七五〇)七月の同村「願書」では、広野・六方両山の御林は七町二反六畝歩となっている。
 その広野・六方両山の御林は、東寺村田畑に続く裾野の山林で、しかも両山が「御留山」に指定されていたことから、「鹿猪すミ、作毛あらし、次第/\ニ田畑相続成かね」る状況となったので、東寺村では「御年貢御付ヶ被遊(あそばされ)、百姓ニ被下(くだされ)候」と、御林山の農民支配山林への移譲を訴えているように、御林山の両山は「嶮岨」な林に成長していたことが、想像されるのである。
 その後、六方山に限り、東寺村農民の下草場に許されているが、寛延三年九月の「松木之覚」では、広野山の木数四五九本、六方山二一二本の合計六七一本のマツが調査されており、それらのマツ立木のなかには、目通り二尺三寸から五尺の大木が両山で四三本確認されている。さらに弘化(こうか)三年(一八四六)の「御林帳」には、広野山一、〇四四本、六方山六〇三本の計一、六四七本に植林用のマツ苗木が両山で七五〇本と記録されている。そのうち広野山では長さ四間から七間半、目通り五尺から六尺五寸の大マツ一三六本が、また六方山でも同じ大木が一一三本と、両御林山が長大材を含むマツの美林をみせていたことは明らかであり、それだけに「猪鹿多籠」る状況にあったものと思われる。
 マツの長大材が成長した御林山の立木も、その若干は農民の井堰(いせき)用材に伐出されたようであるが、藩用材への利用については明らかでない。その広野・六方の両御林山は、明治五年(一八七二)に旧膳所・水口両藩の藩士に払い下げられて私有林となり、その後東寺村の買い取りによって村中分となった(『甲賀郡志』)のである。