石部町の林野が、村立会林と御林山にその特徴をみせたのに対して、享保十七年(一七三二)七月の「西寺村高辻并大概帳」が、信楽黄瀬(きのせ)領内(信楽町)の施行山(せぎょうやま)は、柑子(こうじ)袋・平松(以上甲西町)・東寺・西寺村に石部宿を含む甲賀五ヶ村の立会林(村々入会林)であったことを記述しているように、石部町域には、隣接諸村との間に林野を共同利用する村々立会林(入会林)も存在していた。そしてそれらの村々入会林は、各村の入会権(利用権)とその境界をめぐって、対立と争論が絶えずくりかえされていったが、支配領主との関係から膳所藩や信楽役所、さらには南都役所、京都町奉行へと、訴訟は各方面にわたっていったのである。
そうした村々入会林の成立と、それに伴なう入会権・境界争論の背景には、柴(燃料)や芝草(肥草)の採集を、田畑に隣接する山裾の林に求めようとする石部町域農民の用益上の問題が、そこにあったからではなかろうか。