そこでまず、西寺村と石部宿の立会林であった太田山の入会権争いからみておこう。
太田山は阿星山麓の石部山の内に位置して、西寺村と石部村(宿)の山境にあたるが、その太田山立会林の由来については、元禄六年(一六九三)十月に六地蔵村(栗東町)外三村の仲介で太田山山論の和談が成立した「山論〓(あつかい)済状」の中で、石部村の検地帳に記載される山手米四石のうち、三石二斗を石部村が、八斗を西寺村から上納してきたことで、太田山が両村の立会林となった、と説明している。
しかし、同じ「済状」のなかで、西寺村阿星山の内、東西三町半に南北三町は地頭から常楽寺附(寺領林)とされ、同山内の西輪院谷は西寺村の「内林」に指定されているとも述べ、その他の林については、西寺村から山札(入山札)二〇枚を石部宿に渡して石部村二〇人と西寺村の立会林になっていると、石部・西寺両村の阿星山中の立会の範囲と利用権についても説明を加えている。それは、太田山の立会権が両村全体の入会権問題であったからであろう。
そしてさらに、阿星山南麓の黄瀬村支配林にも石部宿は山年貢を負担しているが、西寺村は常楽寺観音堂の由緒(修覆料の負担)によって山手米を負担していないと、奥山にあたる阿星山全体への山手米負担についても、両村それぞれの実状を記述している。
太田山を中心とする石部・西寺両村の山論は、西寺村から入山札二枚を追加して、石部村の入山者を二二人(枚)とすることで落着するが、その背景には石部宿の山手米負担が大きく作用したものと思う。それにしても、太田山を含む阿星山奥山の用益権の拡大を主張した石部宿(村)は、そこに薪炭や下草の需要の増加によるものであったろうか。
なお、黄瀬村の支配山林(施行山)への入会について、西寺村が無年貢であったことは、慶長十四年(一六〇九)に銭一貫五〇〇文を黄瀬村が西寺村から借用し、一日牛馬六頭分の草刈り(入衆)を認めていたことによると、一方では述べている。