谷中山の山境争論

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次に柑子袋・平松村(甲西町)と東寺村三ヶ村の立会林、谷中山の山論を検討しておこう。
谷中山は阿星山の中腹、南東の平松村に位置するが、阿星山中に含まれる三ヶ村の芝草山であった。その谷中山が三ヶ村立会山となる由来は欠くものの、現存史料では天和(てんな)三年(一六八三)八月の平松村訴状をはじめ、文久四年(元治元年・一八六四)二月の「〓済一札」まで、山論は約一八〇年にもおよんでいる。
 その谷中山の立会について、最初の平松村訴状は、「田畑之畔山川迄立合(会)ニ仕来、草薪芝土ニ不寄(よらず)、其村ノ勝手次第」と述べている。それが山論の起こりは、柑子袋村が花園村(甲西町)に「草札」を渡して谷中山の草刈りを許したことにあって、そこに東寺村も加わって、柑子袋・東寺村対平松村の争いに発展していったのである。
 しかし、その山論の争点は谷中山の山年貢の負担に移り、平松村は毎年米六斗六升七合を上納(銀納)してきているが、「弐ヶ村ハ御年貢上納者不仕」と主張、それに対して二ヶ村は、「谷中山ニ御年貢と申儀者有之間敷」と、無年貢山と主張してさらに、谷中山は柑子袋・東寺両村の林で「平松村より此山へ入候儀ハ成間敷候」とまで反論、遂に京都奉行所(町奉行)の裁断を待つことになったのである。
 それに対して、京都奉行所は貞享(じょうきょう)元年(一六八四)に「三ヶ村之内、野山川端井溝筋之端ニ而も、惣而田地之構ニ不成所有之候ハハ草芝立合(会)苅候」との芝草立会場所と確定する裁決を下したのであった。
 京都奉行所の裁断によって、山年貢を含む三ヶ村の争論は落着となったものの、六年後の元禄三年(一六九〇)には、東寺村の年貢地内で柑子袋農民が「土芝松苗共堀取」といった行為が、さらに同五年には、平松村から「大勢」が入り込んで草を悉(ことごと)く切取るといった「押領」が続いていく。
 東寺村からはそのたびごとに奉行所へ訴え、翌六年四月には京都東町奉行松前伊豆守嘉広の裁許をみたのである。その内容は、阿星山の石不動谷を境に阿星山の真中を見通して西が東寺村領、東は平松村領、平松村は山手米上納により、下柴は「平松村一分ニ而可苅取」とするが、「草芝之儀者(は)先規之通三ヶ村相互に立会可之候」、ただし「すき取」は禁止、また谷中山麓は、信楽道東のなだれは平松村の内山に、そして田地際を境に東は平松村領田地、西は東寺村領、というもっぱら両村の境界を示すものであった。
 山裾の田地を含む山境が確定したとはいえ、元禄十二年(一六九九)には柑子袋の柴刈りで東寺村が、享保十八年(一七三三)五月は東寺村が山裾を開いて「隠田(おんでん)」にしていると平松村が訴え、同年六月には領主側も「東寺村田地之際迄、新林仕間敷」しかも「田地際より拾五間通り芝野にて可差置」と「申渡」したのであるが、草柴刈りについては、現存史料の上でも寛保(かんぽう)二年(一七四二)、同三年、宝暦(ほうれき)六年(一七五六)、同七年、八年と争いは続いていく。そして文久四年には、谷中山のマツ木の伐採について柑子袋・平松両村が「詫状」を認(したた)めているが、谷中山の山論は、明治の新政まで継起していったのである。