西輪院谷は、元禄六年(一六九三)十月の西寺村・石部宿の「山論〓(あつかい)済状」(前出)でもふれたように、阿星山の内にあって西寺村の「内林と被二立置一候」林であった。それが同年十二月に西寺村四〇門(戸)に割り当てて利用する山割を実施したのである。そのときの分け山については次の史料に詳しい。
西輪院谷内林村中置目事
一、西輪院谷之内を札山へ〓衆大分被レ出候故、村中相談之上ニ而、内林刻(割)なをし、人々へ相渡し申候、後々(ニ)至何之申分仕間敷候、右之林売買・質物なとに仕間敷候、若かふだ(株絶)へ之者御座候ハゝ、地下へ上ケ山ニ可レ仕候、たゝ今四拾門ニ刻付申候上ハ、此以後増門有レ之候ハゝ其門より分ケ可レ被二相渡一候、為二後日一如レ件
元禄六年酉之十二月廿八日
新助印(外三九人略)
(『竹内淳一家文書』)
すなわち、西寺村内林の西輪院谷は、そのかなりの部分を「札山」にして特定の村人に「山札」(入山鑑札)を渡し、柴草の採集を認めてきていたが、それを村の全門(本百姓四〇戸)に割り当てて利用させるという山割を実施したのである。その山割が、同年十月に落着した西寺・石部両村の太田山(石部山の内)立会山論に関係してかどうかは明らかでないが、割受人の割受山の売買・質入れは禁止、「かふだへ」(絶家)の場合は「地下へ上ヶ山」(村に返納)、「増門」(分家)は本家分から分けるとしている。
その西輪院谷について、宝暦二年(一七五二)二月の「西寺村明細帳」には、
一、阿星山之内西輪院谷 [東西五町 南北三町半]
右之山村中人別持山、以二由緒一米壱石八斗宛、常楽寺観音堂修覆料ニ納来り申候
とあって、元禄六年の各戸への分割持山の制度が永代割りであったのか、なお引き続いていたことがわかる。
写97 阿星山周辺(『東寺地区共有文書』)