広野・奥山の組割

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また西寺村では、西輪院谷の四〇門(戸)割りに続いて広野山・奥山にも山割が実施された。正徳六年(享保元年・一七一六)二月の「村中掟(おきて)書」には次のように述べている。
     村中掟之事
一、広野并奥山荒申ニ付、はへ立申様ニ、村中相談之上相究メ申、則三組ニ山割付置相守候筈ニ書付相究申候、此上ニ松葉盗取、徒(いたずら)を仕者在之候ハは、其組として吟味可仕候、村之内誰ニ而も見付申候歟、又ハ御役人衆中之目ニ懸り申候は、村中吟味之上其科ニ応シ、たとへ在所追出仕候共、村中相究メ申上ハ、其筋之御役人衆中へ一言之御恨申間敷候、為其判形如此ニ御座候、以上

    三組へ山割付
 一、せな谷筋            太右衛門印  (外一三人略)
    かけ林上水流切
 一、はなかけ筋竹谷筋        善右衛門印  (外一三人略)
    下がこはより奥へ水流し切
 一、上がこはより大谷筋       与兵衛印   (外五人略)
    境か谷筋共

 右之通三組として堅相守可申候、以上
    正徳六年申ノ二月六日
(『竹内淳一家文書』)
 
 広野山は、その一部が膳所藩の御林であって、東寺村との境に位置する。奥山は阿星山の西南の山並にあたり、現在の小字で「平甲」にあたるが、ともに太田山山論で石部宿二二人の立会を認めた林かと思う。享保十七年(一七三二)七月の「西寺村高辻并大概帳」では、「阿星山流大谷筋広野松林共」村中の草柴の刈取場であったが、「四拾年以前、石部宿より太田山年貢ヲ以押領被申掛、山論ニ及候」林であることを説明している。
 その広野・奥山に対して、西寺村中三四人(戸)を一四人・一四人・六人の三つの組に分け、それぞれに場所の指定でもって山を割付けるという「組割」の山分けを実施したのである。
 組割りの理由は、村中持ちの共同管理では山が荒れるのみで、立毛の育成のためだとしている。したがって、「村掟」のなかでも「松葉盗取」に対しては「在所追出仕候」きびしい規定となったのであろう。なお三四人(戸)は、西輪院谷の場合と同じ本百姓のみであったかと思われる。