井手山の山割

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今ひとつ、瀬名谷井手山の山割があった。井手山は元禄六年の「御留メ山」三山の中のひとつとして現れ、西寺村の支配山(村山)である。その井手山の山割については、宝暦三年(一七五三)二月の山割証文にみることができる。

写98 長寿寺と井手山(『東寺地区共有文書』)

     瀬名谷井手山割事
一、井手山割名(銘)々壱ヶ所宛請取、此割拾ヶ年後ニ切可申筈ニ相極メ申候、若切さる人御座候ハゝ、其節之役人見廻り、惣方立会切取可申候

一、松木之外者一切林(生)申間敷候、若松木より外ニ値(植)立候ハゝかり可申候、其時一言之子細申間敷候、為後日墨付如此ニ御座候、以上

    宝暦三酉二月
                            西寺村 庄屋 彦左衛門印
                            同村  年寄 宇兵衛印
                                組頭 甚太郎印
                                同  善九郎印
                                同  市三郎印
                                  (三役外四一人略)
 瀬名谷井手山の山割は、一〇年の年期を限って一戸あたり一ヶ所を割付ける「年期割」であった。そして一〇年後には必ず立毛を伐採するが、割受山にはマツを植栽してそれ以外の雑木は刈り取ると、マツ林の育成が強制されたのである。それは御林山がマツ林であったように、浅木林から商品材のマツの育林に注目するようになったためであろうか。
 その後一〇年を経過した井手山の山割状況は明らかではないが、天明(てんめい)五年(一七八五)三月の「瀬名谷井手山割事」では、割当て期間が一五年と五年が延長され、その上で「年数相立候上ハ銘々松木伐取可申、其上割替可仕候」と、年期が明ければマツは伐採されて「割替」が行なわれたのである。
 割替による割受山も、マツの植栽が義務づけられたが、割受人は庄屋・年寄を含めて四六人(戸)であった。原田敏丸氏は、西輪院谷や広野・奥山の割受人が本百姓のみであったのに対し、井手山は本百姓・水呑の区別なく、村の全戸がその対象となっているように思うと、推定している(『近世入会制度解体過程の研究』)。
 以上、石部町の山割制度の実態をみてきたが、瀬名谷井手山のマツの植栽が示すように、石部町の山割制度は、立毛の育成をもってする山林保護に注目され、柴・芝草の採集林から経済性の高いマツ林へと林相の変質していったことが想像させられると同時に、そうした村山の在り方は、明治十九年(一八八六)に西寺村の共有林保護規約が、そして同三十一年(一八九八)には石部村部落有山林保護規程へと、村山(共有林)保護をそこにみていくのである。