すなわち慶長六年には、東海道各宿に対して朱印状を下付すると同時に、伝馬徴発を趣旨とした定書を下している。その朱印状は、「この御朱印なくして、伝馬すべからざる者也、仍て件(くだん)の如し」といった簡単な内容のもので、朱印状に捺(お)されたものと同様の朱印を持たないものに対しては、無賃伝馬を出さない旨を定めた。
また伝馬定書についても、東海道の各宿場に下していることからすれば、石部宿に対しても下されたと思われるが、現存していないため、隣宿である水口宿のものを紹介しておこう(『水口町歴史民俗資料館所蔵文書』)。
御伝馬之定
一、三拾六疋ニ相定め候事
一、上口ハ石部迄、下ハ土山迄の事
一、右の馬数壱疋分ニ居屋敷六拾坪宛下され候事
一、坪合弐千百六拾坪居屋敷を以って引取らるべく事
一、荷積ハ壱駄ニ三十貫目の外、付け申され間敷候、其積ハ秤次第たるべき事
一、上口ハ石部迄、下ハ土山迄の事
一、右の馬数壱疋分ニ居屋敷六拾坪宛下され候事
一、坪合弐千百六拾坪居屋敷を以って引取らるべく事
一、荷積ハ壱駄ニ三十貫目の外、付け申され間敷候、其積ハ秤次第たるべき事
慶長六年 伊奈備前守 (黒印)
丑正月 彦坂小刑部 (黒印)
大久保十兵衛(黒印)
水口
年寄中
この内容は、各宿場ごとに伝馬三六疋の設置と、移送の荷物は一駄につき三〇貫目とすること、それらの荷物移送の範囲(水口の場合は上りが石部、下りが土山)、伝馬提供の代償として居屋敷を下付するといったものであり、東海道筋のどこの宿場に下付されたものもほぼ同様の内容であった(『近世交通史料集』四)。
すなわち石部宿の場合も、この水口宿と同様に伝馬三六疋と、伝馬一疋につき六〇坪の地子免除がなされている。(『石部町教育委員会所蔵文書』「慶長七年検地帳」、『石部町史』)。
この時に、朱印状や伝馬定書が下され、宿駅として定められたところは、それ以前からも宿駅としての機能をもっていたものが多かった。また慶長六年に定められた宿駅が、のちに東海道五十三次といわれる宿駅で、各宿駅間の平均距離もほぼ二里一一町(約九・二キロメートル)という人馬の継ぎ立てにも、旅人の休泊にも適した距離で設置された。
写99 伝馬定書 関ケ原の戦で勝利を収めた徳川家康は翌慶長6年(1601)、東海道の各宿に対して公用の無賃伝馬の定書を下した。写真は水口宿に出されたもの(水口町歴史民俗資料館所蔵)。