次に、石部宿の成立時期の問題点について、『石部町史』には、元亀(げんき)二年(一五七一)と元和(げんな)年間(一六一五~二三)という二説が記されている。
元亀年間の成立とする理由は、元亀二年に織田信長の家臣がこの地を知行した際、「田中村・植田村・谷村・蓮村・平野村五箇村一所ニ合石部町(まち)ト成る」(『石部町史』所収史料)と記録にあることから、織田信長の治下においてここにみえる五ケ村がひとつにまとまり、石部の町を形成したことによって宿の成立とみなしている。しかし、この点では史料が不足している上に、近世的な宿駅の成立ということになると若干の問題も残る。また元和年間の成立については、伴信友の著した「神名帳考証」に「石部宿は元和年中後宿となされたり」と述べていることをもっての理由からである。これも先に紹介した慶長六年の定書や朱印状の下付ということからすれば、近世中・後期にいう宿場の機能は十分でないとしても、すでに制度上宿駅の成立が位置づけられており、これらの点からすれば矛盾が生じることとなる。
すなわち石部宿成立の時期については、第一章第三節で触れたように、豊臣秀吉の通行に際して、石部の地が宿駅として機能していたことは間違いない。ただ、その時の宿駅がどこまで確立されたものであったのかは定かではなく、これまで述べてきたわずかな史料ではいずれとも断定するのは困難である。そこで、石部宿が近世的なものとして成立の兆しがみられるのは、やはり慶長六年の朱印状と伝馬定書が下付された時期に求めるのが妥当であろう。そして、その後に次第に整備され、発展をみるのである。