まず陸上交通において、そのもっとも根幹をなす街道の整備として、慶長九年(一六〇四)には一里塚を築造する。これは信長の定めた一里三六町の里程をそのまま踏襲し、一里ごとに五間四方の塚を築いた。石部宿内では、下横町(現、西横町)の西端あたりにあって(『東海道分間延絵図(ぶんけんのべえず)』)、その樹木はエノキ(榎)であったことが『東海道宿村大概帳』に記されている。一里塚の「榎」については、『徳川実紀』の中に、家康が道中奉行である大久保石見守長安(いわみのかみながやす)に対して、「樹にはよい木を用ひよと仰ありしを。長安承り誤りて榎を植しがいまにのこれりとぞ」とあるように、良い木を榎と誤って植えたというものである。
寛永(かんえい)年間(一六二四~四三)には、東海道の街道筋に並木も整備された。このころの石部付近の並木については史料がないため知ることはできないが、『石部町史』には、石部宿の両側に松の木が整備されていたことが記されている。
写100 松並木(右)・一里塚図(左)
松並木は昭和初期に撮影されたもので、落合川手前(西側)付近にみられたものである(寺元平吾氏所蔵)。一里塚(写真)は、石部宿西入口側の下横町(現在の西横町)にあったもの。道路の両側にそれぞれ存在していた。(『山本恭蔵家文書』「宿内軒別坪数書上帳」年未詳)。
さらに、同じ寛永年間には、一里塚や並木の整備とともに掃除丁場と称する沿道の清掃役の制度が設けられた。これは、往還のうちそれぞれ各村に掃除丁場を割り当て、重要な通行にあたっては特に厳重に清掃を行わせたものである。石部宿の掃除丁場に割り当てられた村々は、表16のとおりで、東寺・西寺村なども含まれていた(『東海道宿村大概帳』・『甲賀郡志』上巻)。
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