町並みの構成

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近世初期に成立した宿場には、のちにみられるように、さまざまな要素が町並みを構成しているが、それらは決してすべてが成立当初から存在したということではない。宿の発展とともに、幕府の制度が整備されるにともない、あるいは往来する人々の必要から、次第に整えられていったのである。
 宿場は、もっとも基本である街道があり、その整備は、慶長九年に諸街道を整備したことに始まる。と同時に、一里塚や松並木の整備も行ったことはすでに述べてきたとおりである(『近世交通史料集』四)。そして、その両側には旅籠屋をはじめ本陣・脇本陣などが並び町場を形成していた。
 時代は下るが、石部宿では天保十四年(一八四三)当時、本陣二軒・旅籠屋三二軒を含む四五八軒が東西一五町三間(約一・六キロメートル)の町並みを形成していた(『東海道宿村大概帳』)。
 さらに宿内には問屋場、すなわち宿における役所も設置されていた。この問屋場といわれるものはどこの宿場にも置かれており、宿内でもっとも重要な場所でもあった。問屋場には、宿役人が詰め、主として公用人馬の継ぎ立てを行った。『東海道分間延絵図』などをみると、石部宿では宿のほぼ中央部に置かれ、その向い側には高札場があった。この問屋場が設置された時期などについては定かではないが、後に述べるようにおおよそ問屋が宿役人として幕府の支配機構に編入される時期、つまり寛永年間の参勤交代制度の実施前後であると推定される。また、高札場についても、制札などの控えをみると、正徳(しょうとく)年間(一七一一~一五)のものからみえはじめるので、おおよそそのころには整備されていたと考えられる。