本陣のはじまり

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本陣の呼称の起源は、正平(しょうへい)十八年(一三六三)に室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)が、上洛の際にその旅宿を本陣と称して宿札を掲げたことに始まるが、近世の宿場について制度的に設置されたのは、おおよそ寛永期ごろ(一六二四~四三)とされる。
 石部宿にあっても、近世後半期の史料であるが、『東海道宿村大概帳』によれば、小島本陣と三大寺本陣の二軒があった。
 二軒の本陣の起源についてみると、三大寺本陣については、史料が少ないため、その由緒などを詳細に探ることはできないが、起源については甲賀郡の豪族である三大寺信尹が女婿である代官吉川源蔵の勧めによって、武家の休泊施設を開き、寛永五年(一六二八)に本陣を創業して、その職を拝命したとされる(『石部町史』)。
 一方の小島本陣は、その由緒書によれば文禄三年(一五九四)に徳川家康が通行の際に休泊したとされる、代官吉川半兵衛の屋敷であるといった系譜を引くもので、その後慶安(けいあん)三年(一六五〇)に創建された。そして当主である小島金左衛門は、膳所藩主本多俊次(としつぐ)、次代の康将(やすまさ)に仕え、その功によって承応(じょうおう)元年(一六五二)に本陣職の命をうけたと記されている(『小島忠行家文書』)。
 これら二軒の本陣の規模は天保十四年の改めでは三大寺本陣は建坪一三八坪(約四五五・四平方メートル)、小島本陣は建坪二六二坪(約八六四・六平方メートル)で、建坪のみに限れば小島本陣が大きかった。
表17 石部宿両本陣の規模
三大寺本陣小島本陣
天保期坪数138坪262坪
間口間数18.5間21.5間
奥行間数東29間31間
西20間
畳敷室数2526
畳数232.5畳173.5畳

 しかし、今日ではいずれもその当時の景観をしのぶことはできない。