本陣では、おおよそ各大名の定宿が定まっており、休泊の約一〇〇日前から五〇日前、早い時には一年前に休泊の日を決定して予約をする。一方本陣の方は、御請書を書いて間取り図とともに送ると、さらに座敷割りと休泊日付けを送り返してくる。これらをもとに、休泊の日までには準備を整えるわけである。そして、大名などが休泊するのに際して、さまざまな取り決めがなされている。その一例を紹介すると、近世後期のものと思われるが、大名の休泊に際して、宿割帳と関札が石部宿へ下されたという記録がある。その関札の中に記されている事柄をみると次の様な点が心得として挙げられている。
本陣の近辺に不審な者が入り、騒々しくないように裏通りの家主に申し付ける。万一火事があった場合は、避難の道筋などを差し支えのないようにしておく。本陣の内外の警備は念入りにする。などといった些細なことまでが決められている(『小島忠行家文書』)。
写102 小島本陣間取図 作成年は不明であるが、板間・畳間・土間などが色分けして示されている。作成時期の異なる間取図と比較すると、板間が畳間に変わり、あるいは改築されるなど、本陣の間取の変遷がうかがえる(小島忠行家所蔵)。
さらに本陣では、その休泊の費用に定まったものはなく、休泊する大名などからの下げ渡し金によって主に経営がなされていた。実際、大名の側も年々の通行に当って、藩の財政も常に裕福なときばかりではなく、近世の後半期になると、藩の財政も窮乏してくる。するとその支払いも思うように行かず、当然本陣の経営も困難になってくる。しかし、本陣という格式などからしても、一般の旅客を休泊させて経営を安定させるわけにはいかず、幕末に至るにつれて、困窮の度合いは増してくるのである。
このようにみると、本陣の経営はその格式に比して、決して安定したものであるとは言えなかったのである。
写103 関札 大名や公家などの休泊に際し、宿の入口および本陣の玄関に掲げられ、誰が休泊しているのかわかるようにした。