宿の支配と宿役人

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宿は、おおむね石部宿や隣宿の草津宿のように一村からなっていることが多かった。ということは、当然宿駅の支配とともに、村の支配をも受けることになる。宿駅に関することは道中奉行、村そのものの支配はそれぞれの領主ということである。しかし、いずれの支配も別個に考えることはできず、相互に関連して成り立っているところが多く、重複していた。
 一般には、村方に関することは名主が、宿駅に関することは問屋・年寄が管掌していたようである。そして、この問屋・年寄を宿役人と称した。また村方の名主を加えて宿三役という場合もあり、百姓代や問屋場の帳付・人馬差などを宿役人に含めることもあった。
 石部宿でも、正徳二年(一七一二)の「覚書」に「石部宿問屋内貴(ないき)藤七、人足方清水安太郎」と問屋・人足方の名が見えることから、このころすでに宿役人は設置されていたと考えられる(『石部町史』)。
 享和(きょうわ)三年(一八〇三)の石部宿の様子を示す「御分間御用向帳」には、宿の問屋場の役人として、問屋役三人・年寄役二人・書役二人・馬差二人・人足割役二人・定使二人・飛脚六人が記されている(『石部町史』)。
 問屋というのは、『徳川幕府県治要略(けんちようりゃく)』に「宿駅の公私旅行者に対し、人馬伝送宿泊等の駅務を総理するの役人」とあり、寛永十二年(一六三五)の参勤交代の実施の前後に、幕府の支配機構のなかに宿役人として組み入れられた。
 問屋の業務の具体的なものとしては、隣宿である草津宿の場合をみると、御先触持ち・御用御旅行提灯持ち・御用向宿の夜番・助郷触・御書飛脚などを管轄し、さらに大名行列の宿割・助郷人足の割り当て、争論の仲裁などの業務があった(黒羽兵治郎『東海道草津宿史料』)。これらは石部宿の場合にあってもほぼ同様であったと考えられる。また、問屋が宿内で非常に重要な位置を占め、繁忙であったことは、田中丘隅(きゅうぐ)の『民間省要(みんかんせいよう)』に「夫(そ)レ問屋は外を下知して町中助郷の人馬を差引、往還人に対して用事多くして、問屋場にすわりて居るは稀(まれ)なり」と記していることからもうかがえる。
 年寄役というのは、問屋のもとでこれを補佐する役目をもち、当番制で勤めていた。
 さらに、問屋や年寄の下に帳付(書役)・馬指などがいた。帳付は問屋場に出勤して、人馬の出入りを記録する職務を持ち、馬差というのは宿駅・助郷人馬に対する荷物の差配をするもので、石部宿の場合はこの馬の差配をする馬差と、人足の差配をする人足割役に別れていた。そして、定使という者もおり、問屋においての雑用などを担当していた。
 宿の役人としては以上のようであったが、宿内における運営の機構として寄合と言われるようなものがあったと考えられるが、それらの史料は見当らないため、具体的な内容はうかがうことができない。