継立制度の確立

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宿駅には、今までみてきたような休泊の機能とともに、公用の通行に対する人馬の提供といった任務もあった。この負担を伝馬役といって、馬役と人足役があった。
 この伝馬役については、先述のように慶長六年に伝馬の制度が定められ、無賃伝馬三六疋による公用荷物の継ぎ立てが行われていた。しかし、街道を往来する荷物の輸送は、公用のものばかりではなく、当然のことながら一般の人々の利用もあったため、無賃伝馬によるもの以外に、駄賃馬や雇い人足に対する規定などもあった。
 その人馬継立の種類については、御朱印によるもの、御証文によるもの、無賃によるもの、御定賃銭によるもの、雇上によるものなどがあった。
 御朱印によるものとしては、享保(きょうほう)八年(一七二三)の規定によれば、公家衆・御門跡方・大坂御目付・宇治御茶御用・京都御使・駿府御目付など二三の通行であった(「駅肝録(えきかんろく)」)。御証文による通行は、老中・京都所司代・大坂町奉行・大坂定番・駿府町奉行・勘定奉行などであった(「駅肝録」)。さらに無賃の人馬は、道中奉行の触書などを宿継ぎで伝達する場合などで、御定賃銭というのは、公定賃銭で宿の高札にその賃銭が示されている。この御定賃銭は、本来すべての旅客に対して適用されるべきであるが、一般より低額で、公用の旅行者にのみ特権的に利用された。雇上というのは、一般の旅客が利用できるもので、人馬の利用者と、問屋などの仲介によって駄賃稼ぎの者との相対で賃銭を定めるものであった。
 一般的に、伝馬役は宿内の町屋敷地に賦課されるもので、原則としては地子免除の範囲とおおよそ一致している。そして、その負担についても、街道に面した町屋敷地の間口に応じてなされていた。慶長七年(一六〇二)の検地帳では、石部宿の地子免除坪数二、一六〇坪で、三六軒の役家が一疋につき六〇歩ずつ、七石九斗二升が給されている。その後、寛永十五年(一六三八)一〇〇人一〇〇疋に定められたので、地子免除高も増加され八、五六〇歩となっている(『石部町史』)。