近世における宿場は、休泊施設としての機能、人馬継立の機能とともに、多くの情報が行き交う街道の要衝にあり、情報基地としても少なからず機能していた。
石部宿の場合も、多くの人々の休泊によってあらゆる地方からの情報が宿にもたらされたであろうし、交換の場ともなっていた。また、文化面においても、それらをもたらす人々は、一過性の旅人であったとしても、宿の内部ではそうした文化を受容できる素地を備えていたのである。
『膳所領郡方日記』(滋賀県立図書館所蔵)などをみると、多くの芝居興行や相撲などの勧進事業が行われており、道中記・名所図会などに石部が紹介されている内容などからすると、宿の近隣農村の中心的位置を占めていたと同時に、そうした地域からの情報の交換の場所ともなり得ていた。また、全国各地の飛脚屋が往来し、それによってあらゆるところの情報が、石部宿へ集まってきたと考えられるのである。
残念ながら、石部宿における情報の交流をうかがう具体的な史料が見当らない。しかしながらこれらのことは、宿の分析で見逃されがちではあるが非常に重要なことで、宿文化の形成基盤をなすものであり、また情報の交流は宿場の繁栄の一端を担っていたといえる。
さらにこの石部宿が情報基地としての性格を持ちうる背景には、通信機能を担う飛脚の存在が見逃せない。
飛脚は、律令制の駅馬をその起源とし、近世になって駅伝制が確立されたことによって急速に発達してきた。近世の飛脚には、大別すると幕府公用のための継飛脚をはじめ、諸藩専用の大名飛脚、民間で営業する町飛脚などがあった。これらの飛脚が、その継立に宿場を使い、またその取次所が設置され、全国各地からの情報が集積される要素を持ちえていた。殊に近江の飛脚は、全国各地で活躍する近江商人との連携によって、広い範囲の情報網をもっていたと考えられる。
飛脚について興味深い記事が『膳所領郡方日記』にみられるので、少し紹介しておこう。
先に触れた町飛脚の中で、江戸・大坂・京都の飛脚仲間が定期便を出し、それを三都飛脚と称する。さらには月に三度の定期便であったために三度飛脚と称するものがある。石部宿にも、その三度飛脚(さんどびきゃく)の取次所があったと思われ、そこでの出来事である。
享保(きょうほう)八年(一七二三)十月二十三日夕方、一週間前に江戸を出た大坂三度飛脚(江戸・大坂間を月三回定期的に往復する飛脚)嶋屋喜兵衛ら六人の一行が石部に到着、宿問屋で、取次所でもあった治左衛門宅に宿泊した。彼らは大坂の大名屋敷への御用と、諸商売人から依頼された金品の配達が仕事であるが、その日の夜中に大名・商人から預かっていた金二一六両余と、銭一貫文の入った財布が盗まれてしまった。問屋治左衛門はさっそく宿役人を犯人と盗難品の捜査に当たらせた。翌朝、金山(かなやま)村(現在の古道(ふるみち)と呼ばれるあたりと推定)まで捜査に行っていた三治・善吉が宿に戻る途中田の中に金銭だけを抜き取って捨ててある財布を発見した。宿周辺に犯人らしき者は見当らず、大名・商人に渡すべき金銭を失った飛脚喜兵衛はとりあえず大坂飛脚組合から金銭を立て替えてもらい、支払いに当てた。
十一月に入っても事件解決の手がかりさえつかめないため、飛脚喜兵衛は高額な金銭の被害ゆえ、泣き寝入りするようなことにでもなれば大切な客から信用を失い、飛脚家業を営む人々にも悪影響を及ぼしかねないとして、使用人を含む問屋治左衛門家、さらには財布を発見した二人まで疑わしいので取り調べてほしいと奉行所へ訴え出た。
膳所御役所での取り調べの後、翌享保九年一月十三日から四月四日の一応の結着がつくまでの間、訴訟人飛脚喜兵衛方と、被告側石部宿問屋治左衛門方双方ともに江戸へ赴き、評定所(ひょうじょうしょ)へ三回、当時の町奉行大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)御番所へ七回、計一〇回取り調べが行われている。
『膳所領郡方日記』には、この訴訟事件の一部始終が記されており、特に正月十三日評定所での一人ずつの事情聴取の史料は詳しく記されている。そして四月四日には、大岡越前守より問屋治左衛門らを犯人とする証拠はなく、今後何らかの事実が判明した場合は速やかに届け出よと、双方おとがめなしの不起訴処分となった。世にいう「越前裁き」もこの事件では今ひとつ冴えなかったようである。
ともあれ、こうした飛脚屋の存在は、宿駅における情報をコントロールする上で、大きな役割を果していたのである。