宿の規模と性格

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石部宿は、「京立ち石部泊り」と口碑が残るように、京都を朝出発して一泊目の宿場町として繁栄した。一般的には江戸時代の一日の行程は、九~一〇里(約三六キロメートル)といわれる。石部から京都までの距離は、約九里五町で、ちょうど一日の平均的行程にあたる。したがって、石部の宿泊者にはその日京都を出発した人が多かったようである。まず、具体的問題に入る前に、このような位置にある石部宿の性格を東海道の他の宿場町と比較してみよう。
 表18は、天保年間(一八三〇~四四)の『宿村大概帳(しゅくそんたいがいちょう)』に記された東海道五十三次の石高・人口・戸数・旅籠(はたご)屋数などの平均値と、石部宿のそれを示したものである。もちろん、宿場町といっても水口宿や小田原宿のように城下町を兼ねたり、草津宿のように東海道と中山道の両街道の宿場町の場合など多様であり、単純な比較はできない。石部宿は、近世初期には吉川代官が居を構えた特殊な宿場町であったが、その後は一般的な宿場町として機能していたと考えられる。そこで、草津宿のように東海道の宿場町で城下町や港町などを兼ねる特殊な場合を除くと、人口・戸数・旅籠屋数は東海道のほぼ平均的な規模となる。
表18 近江における東海道宿駅の規模天保14年(1843)
宿名宿高町並人囗家数本陣脇本陣旅籠屋駅間里程
石斗升合里町間里町間
土山1,348.6.1.722.551,5053512044
2.25.00
水口2,464.4.0.922.062,6926921141
3.18.00
石部1,719.8.6.315.031,6064582032
2.35.54
草津1,571.3.5.711.532,3515862272
3.24.00
大津-1.04.5214,8923,6502171
東海道の平均651.9.0.04,0511,0002155
『東海道宿村大概帳』により作成。

 しかし、石部宿の石高についてみると東海道の平均値の二・五倍もあり、草津宿の一、五七一石余よりも多い。このような多い石高は、石部宿の性格の一端を反映したものと思われる。すなわち、交通的機能のほかに、農業にその経済的基盤を依存する割合の高いことを示している。
 このような石部宿の性格を示すものとして、植田村の存在があげられよう。石部宿関係の検地帳類をみると、慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の「石部村検地帳」以外は近世を通じて「石部植田」か「植田村」と表現されている。これは、石部村の中に農業を主とする植田村と、宿場町としての石部宿が意識されたことを示している。
 寛政(かんせい)のころ(一七八九~一八〇〇)に作製された『近江国名所図会(ずえ)』の石部宿を描いた図から、宿の西半部が瓦葺であるのに対して、東半部はまだわら葺であったことが指摘されている(『石部町のあゆみ』)。これも、石部宿には、宿場町的機能の顕著な部分と同時に農村的景観を示していた部分が並存していたことを物語っているといえよう。わら葺屋根の家並みの部分は、植田明神とも呼ばれている吉姫神社の氏子圏である。植田村はこの神社に由来するものと考えられる。

写104 石部植田名寄帳
貞享4年(1687)当時の耕地ごとに所有者・石高・反別を集計したもので、東河原・十禅寺・清水町・中嶋など植田と称する地域がかなり広範であったことがわかる(『石部町教育委員会所蔵文書』)。