全体的にみると、間口は各町とも平均しているが、奥行きは不統一であり、屋敷の面積は奥行きによって決まることになる。このことは、間口を一定にした短冊(たんざく)型の町並みが作られていたことを示している。
写107 享和3年(1803)往還通絵図 道路に面し、間口を表わす朱丸点(写真では黒丸点)が描かれ、その間に所有者・間口・奥行などが描かれている(『山本恭蔵家文書』)。
町名 | 軒数 | 間口 | 奥行 |
---|---|---|---|
東清水町 | 12 | 4.65 | 5.3 |
西清水町 | 31 | 3.8 | 4.7 |
小池町 | 17 | 5 | 7.4 |
鵜ノ目町 | 21 | 4.5 | 6.5 |
大亀町 | 21 | 4.8 | 7.8 |
谷町 | 14 | 4.5 | 8.2 |
仲町 | 20 | 4.8 | 7.7 |
出水町 | 20 | 4.7 | 6.8 |
平野町 | 26 | 4.3 | 6.2 |
上横町 | 29 | 4.1 | 5.9 |
下横町 | 35 | 4.5 | 6.1 |
計 | 246 | ||
一町平均 | 22 | 4.5 | 6.6 |
次に、図の具体的記載内容をみてみたい。宿場の東西の出入口には、先にふれた見付土手が築かれている。西の京都方向の見付土手は、北側が長さ二丈二尺(約七メートル)、南側が長さ三丈八尺(約二・五メートル)、高さ五尺八寸(約一・五メートル)の土居があり、その上に松が植えられていた。東の入口の江戸方向にも同様の見付土手がみられ、西側のそれよりも規模が大きかった。また、見付土手の外側には石部宿であることを示した榜示杭(境界を示す杭)が立てられている。この見付土手は、宿場内が見通せないように配慮したもので、防御的機能を備えていた。また、前述の「宿内絵図」(『山本恭蔵家文書』)にみえる「目見場」はこの絵図では「目見跡場」とあり、その施設が廃せられていたことが知られる。このほかに、前述の道路の鉤型の屈曲や南北に宿場の中を横切る道路は、筋違いに通すなど、見通すことができないようにしている。
宿場の重要施設は、前述の屋敷の広さからも知れるように、中央部の仲町・谷町・大亀町に集中している。特に大亀町と谷町の町境は、中郡(ちゅうぐん)街道が交差し、交通上の要地点となっているが、その付近には問屋場・元会所(もとかいしょ)・高札場が設置されていた。元会所は、宝暦(ほうれき)六年(一七五六)の「書上帳」(『石部町史』)には、「助郷会所」として「宿内絵図」では、「人足会所」と記されている。また高札場は、「宿内絵図」では鵜ノ目町付近にあったことが知られるが、享和三年の絵図には、鵜ノ目町に「元高札場」の記載があることから、ここから移動したものとみられる。仲町には小島本陣があり、その屋敷は間口一〇間六尺(一九・八メートル)×奥行一八間五尺(三三・九メートル)と、宿場内の最大の大きさであった。谷町の三大寺本陣は、この当時火災のため家屋が焼失したことが記されている。ほかの文書によると、寛政ごろ焼失したことが知られる。現在も各町内には愛宕(あたご)社が勧請され、数度にわたる火災が語り継がれている。この当時も火よけ地が、本陣のある谷町と仲町の二ケ所に設けられていた。また、「御分間御用向帳」によると、火の番所が一二ケ所あったと記されている。享和三年の絵図には、この火の番所にあたると思われる「番所」が、下横・上横・谷・東清水各町以外の八町に設けられている。このように防火に対する強い配慮が感じとられる。これは、石部宿がたびたび火事に見舞われたことを裏付けるものであろう。このほかに、明地(あきち)が八八ケ所みられるが、一部には「セッチン」が記されている。また、この絵図によると、安永二年(一七七三)東清水町から中清水町が分かれたことが知られる。
この当時の主要街道沿いの屋敷は、絵図によると二三〇軒前後である。「御分間御用向帳」には、三八三戸とあり、見付の外側や裏町などに一四〇軒程度の屋敷があったものと思われる。