三大寺本陣は甲賀郡檜物荘長者義治を初代とする七代目信尹が妹婿である代官吉川源蔵と計り、武家の旅宿を元和(げんな)年間(一六一五―一六二三)に設けたことにはじまるとする(『三大寺光家文書』「三大寺系図」)。石部宿の再三にわたる火災で罹災し、初期の本陣の規模は明らかでないが、天保期の調査では建坪およそ一三八坪(約四五五平方メートル)であった。小島本陣は慶安(けいあん)三年(一六五〇)創建されたが、膳所藩主本多俊次(としつぐ)、康将(やすまさ)二代に対する小島氏の顕著な奉公により、承応(じょうおう)元年(一六五二)本陣職を許された。元禄(げんろく)五年(一六九二)幕府陣屋領二、八四五坪(九、三八八平方メートル)を与えられ、本陣をここに移した(『石部町史』)。当初上段の間(大名宿泊の際の寝室)には狩野永徳(かのうえいとく)の絵が描かれてあり、宿泊の大名間では評判が高かった(『小島忠行家文書』「宿帳」)。その後しばしば改修され、天保期には建坪二六二坪(八六四平方メートル)の構えであった。
大名らが本陣に休泊する場合は、あらかじめ先触(さきふれ)をもって休泊の日時が本陣に通知され、本陣の主人が一、二宿前まで出迎える場合が少なくない。到着すれば主人から相応の贈物をし、宿泊の大名も寸志を渡すのが慣例となっている。元禄九年(一六九六)五月長州藩主毛利吉広が初入国の途中の各宿駅では、かなり派手な応待がみられるが、石部宿三大寺本陣に宿泊した際、主人小右衛門は小鮎一折、その妻から筍一折、嗣子は塩鱒をそれぞれ献上している。初入国とはいえ道中の出費が嵩(かさ)み過ぎたのか翌年の参府に際して、御機嫌伺いのため本陣の主人や飛脚が宿泊予定の宿から一、二宿も前まで出迎えることは慎しみ、宿はずれまでの出迎えに止めること、贈物についても倹約中のことでもあり、本陣の主人だけに止めることを各宿に達している(山口県文書館所蔵『吉広様始而御参勤一巻』)。
二つの本陣に休泊する大名や公用の幕府諸役人は必ずしもひとつを定宿としたわけではなく、その選択は流動的であった。それだけに宿泊の大名を二つの本陣が奪い合うことも少なからずあった。三大寺本陣を定宿としていた対馬藩主宗氏は、ある年三大寺本陣に不都合ありとして定宿を小島本陣に移した。文政(ぶんせい)九年(一八二六)宗義質(よしかた)が小島本陣に宿泊した際、三大寺小右衛門が宗氏に詫びを入れ赦(ゆる)された。それにより翌年宿割を担当する役人が両本陣の主人を呼び、以後隔番で宗氏の宿泊を担当するよう申し付けた。天保三年(一八三二)義質参府の折、小島本陣に宿泊する番であったが、三大寺本陣から対馬藩大坂屋敷に手代を出し、この度の宿泊を願い出たが容れられず、小島本陣からも伏見宿まで御機嫌伺いに出向き、宿泊を確認した。ところが宿割担当の役人が「草津より当宿迄の内に心代(替)り致し候哉」急に三大寺本陣に宿泊を命じた。小島本陣では驚き入り、手をつくして交渉したが聞き入れられず、「何分只今御宿御受申されては、けが人も出来候事故(ゆえ)、まず差し控える」よう説得され、一応引き下がった。三大寺本陣に落ちついた宗氏の御機嫌伺いに小島金左衛門が出たところ、御供頭衆から、いずれ江戸に到着してのち、宿割担当の役人を取り調べるとの挨拶であった(同「宿帳」)。この事件の背後にどのような働きがあったかは知れないが、この種の事件はしばしば「宿帳」に詳しく記されてあり、両本陣間の宿泊をめぐる日常的確執のあったことをうかがわせる。宿に到着後くじで宿泊先を決めさせることもあったが、両本陣の確執に業をにやした庄内藩本陣調べの役人は「両家より彼是申立られ候てハ是非なく、主人上京の節、当宿は休泊相除き候より外これなく」と、石部宿には休泊しないとまで言い放った。しかしそれでは「宿方一体難渋に相成る」いわば宿の浮沈にかかわるので、両本陣が折れ合い、来春嘉永(かえい)二年(一八四九)庄内藩主上京の折には小島本陣が引き受けるとの請書を前年秋に差し出し落着した(同「宿帳」)。
写110 小島本陣 建物は現存しないが、写真にみえる正面の4枚の欄間は、現在草津のうばがもちやに保存展示されている。
将軍家名代 | 老中 | 京都所司代 | 大坂城代 | 大坂加番 | 高家 | |
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寛文(1661~72) | 1 | |||||
延宝(1673~80) | ||||||
天和(1681~83) | ||||||
貞享(1684~87) | ||||||
元禄(1688~1703) | 1 | |||||
宝永(1704~10) | 11 | |||||
正徳(1711~15) | 1 | 1 | 3 | 5 | ||
享保(1716~35) | 4 | 2 | 1 | 6 | 23 | 26 |
元文(1736~40) | 6 | 8 | ||||
寛保(1741~43) | 1 | 2 | 2 | |||
延享(1744~47) | 2 | 2 | 1 | 3 | ||
寛延(1748~50) | 2 | 4 | ||||
宝暦(1751~63) | 2 | 2 | 6 | 7 | ||
明和(1764~71) | 1 | 4 | 3 | |||
安永(1772~80) | 6 | 8 | ||||
天明(1781~88) | 2 | 3 | 7 | |||
寛政(1789~1800) | 1 | 5 | 4 | 23 | 11 | |
享和(1801~03) | 2 | 4 | 4 | 12 | 1 | |
文化(1804~17) | 3 | 9 | 1 | 7 | 19 | |
文政(1818~29) | 4 | 5 | 7 | 17 | ||
天保(1830~43) | 3 | 4 | 14 | 10 | 12 | 14 |
弘化(1844~47) | 2 | 1 | 1 | 3 | 13 | |
嘉永(1848~53) | 2 | 1 | 4 | 3 | 5 | 23 |
安政(1854~59) | 1 | 2 | 3 | 22 | ||
万延(1860) | 2 | 6 | ||||
文久(1861~63) | 3 | 4 | 3 | 6 | 6 | 19 |
元治(1864) | 2 | 2 | 1 | 4 | 9 | |
慶応(1865~67) | 9 | 1 | 2 | 7 |
大番頭 | 目付 | 大坂目付 | 京都町奉行 | 禁裏・仙洞付 | 大坂町奉行 | その他 | 年平均 | |
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寛文(1661~72) | 2 | 1 | 0.3 | |||||
延宝(1673~80) | 0 | |||||||
天和(1681~83) | 0 | |||||||
貞享(1684~87) | 3 | 0 | 0.8 | |||||
元禄(1688~1703) | 6 | 21 | 1 | 3 | 2 | |||
宝永(1704~10) | 12 | 2 | 2 | 3.9 | ||||
正徳(1711~15) | 2 | 14 | 4 | 2 | 6.4 | |||
享保(1716~35) | 10 | 4 | 41 | 7 | 21 | 30 | 3.3 | |
元文(1736~40) | 7 | 1 | 10 | 1 | 3 | 2 | 7.6 | |
寛保(1741~43) | 5 | 1 | 7 | 2 | 1 | 1 | 7.7 | |
延享(1744~47) | 3 | 1 | 9 | 1 | 0 | 5.5 | ||
寛延(1748~50) | 2 | 5 | 2 | 1 | 5.3 | |||
宝暦(1751~63) | 5 | 11 | 3 | 1 | 1 | 2.9 | ||
明和(1764~71) | 2 | 1 | 8 | 4 | 1 | 1 | 3.1 | |
安永(1772~80) | 3 | 2 | 9 | 4 | 2 | 3 | 4 | 4.5 |
天明(1781~88) | 4 | 6 | 8 | 1 | 3 | 4.3 | ||
寛政(1789~1800) | 19 | 2 | 2 | 7 | 6 | 4 | 16 | 8.3 |
享和(1801~03) | 7 | 2 | 2 | 2 | 7 | 14.6 | ||
文化(1804~17) | 5 | 3 | 1 | 11 | 9 | 16 | 6.0 | |
文政(1818~29) | 19 | 3 | 5 | 9 | 8 | 15 | 7.6 | |
天保(1830~43) | 28 | 12 | 6 | 12 | 13 | 22 | 23 | 12.4 |
弘化(1844~47) | 15 | 2 | 1 | 2 | 2 | 2 | 8 | 13.0 |
嘉永(1848~53) | 23 | 1 | 12 | 1 | 6 | 8 | 15 | 17.3 |
安政(1854~59) | 19 | 8 | 10 | 3 | 1 | 3 | 10 | 13.6 |
万延(1860) | 2 | 2 | 2 | 5 | 1 | 0 | 20.0 | |
文久(1861~63) | 10 | 3 | 4 | 3 | 6 | 8 | 43 | 39.3 |
元治(1864) | 2 | 1 | 3 | 2 | 25 | 51.0 | ||
慶応(1865~67) | 6 | 1 | 1 | 3 | 14 | 14.6 | ||
写111 宿帳と宿帳収納箱
小島本陣の宿帳を収納する専用の木箱であり、大切に保存されたものである(石部町歴史民俗資料館所蔵)。
平常の大名往還の大規模なものの一例として熊本藩細川氏の場合をみてみよう。天保十一年(一八四〇)五月帰国の際、小島本陣に初めて宿泊した。一行が何人であったか明らかでないが本陣には藩主以下六〇余人が宿泊し、ほかに下宿七五軒、日用方宿三五軒、門割衆宿四軒が用意された。この時期石部宿の旅籠屋は三二軒であり、八二軒は木賃宿をはじめ宿泊可能な民家が動員されたことになる(同「宿帳」)。