本年六月上旬、北アメリカ国ペルリと申す人蒸気船ニ乗軍艦を備え、相州浦賀沖へ突然着致し、和親定約願に罷り越し候処、中々泰平打続き候折柄に付き、近国一般の混雑一方ならず、上を下への騒動、筆紙に尽くし難し、御大名方へ海岸御固め仰せ付けられ、御国許より軍勢昼夜御通行
折柄将軍家慶(いえよし)の他界、家定(いえさだ)が将軍職につくなどのことも重なって、献経のための大寺の僧侶、将軍宣下(せんげ)参向のための公家の通行も加わった。六月三日ペリーが来航した報は紀州徳川家にも伝えられ、藩士金沢弥右衛門の一行三三人は早追いで六月十九日石部宿を通過し、夕方水口宿に到着したとき、十二日にペリー一行が浦賀を去ったとの早飛脚の報に接し、すぐ石部宿に引き返し、小島本陣に宿泊した。七月十九日には熊本藩から鉄砲長持二四棹、九月十一日から十四日にかけて尾張藩の御用銅九三駄、十二月一、二両日には大坂城内から江戸へ具足長持一〇〇棹が石部宿を通過するなど緊張した雰囲気に包まれた。
幕末における通行で大規模なものは将軍家茂(いえもち)上洛の際の石部宿泊である。将軍の上洛は頂点に達しつつある尊王攘夷(そんのうじょうい)の動きを朝廷への接近を通じて牽制(けんせい)しようとする一連の働きかけのひとつである。家康以来将軍の上洛は三代将軍家光(いえみつ)まで、しばしばみられたが、寛永(かんえい)十一年(一六三四)以後絶えてなく、文久(ぶんきゅう)三年(一八六三)三月家茂の上洛は実に二三〇年ぶりのことであった。
小島本陣では建物の破損が激しくなったため文久二年六月膳所藩に願出、改築にかかるところ、将軍上洛により御用普請として連日諸職人六〇人余が工事を急いだ。上洛が海路軍艦によるとか、陸路になるなど情報が二転三転しているうちに、先発諸大名の上洛がしだいに目立ちはじめた。大坂湾海岸警備を命じられた一橋(ひとつばし)中納言慶喜(よしのぶ)は文久三年一月三日小島本陣に二時間ほど小休した。一行は総人数二、一三二人、乗馬一七疋で、その休息と通行のために石部宿では下宿一〇二軒と宿継人足三、五〇〇人、継馬四五〇疋が用意された。慶喜には将軍家の命により水戸藩家老武田耕雲斎が遅れて随行し、六日には尾張藩の前藩主徳川慶勝(よしかつ)の宿泊に下宿一二〇軒の用意、尾張藩主徳川茂徳(もちのり)の宿泊に一四〇軒の下宿など大通行が連日のように続いた。二月十日突然陸路上洛の知らせが入り、三月二日将軍家茂(いえもち)は石部宿小島本陣に宿泊した。ちょうど宵節句にあたり、本陣から鮒三尾を献上、調理して差し出し、白銀三枚が下された。供奉の役人の旅籠銭は上下の別なく一人二四八文とされ、人馬についてはおよそ見込みの前金が支給され、後日五倍増賃銭の支払いが約束されていた。家茂らの出発した三日には水戸藩主徳川慶篤の一行四、〇〇〇人、率馬一八〇疋余が宿泊し、下宿一九一軒の用意を命じられたが、内三〇軒は柑子袋村に頼むこととなった。宿継人足四、〇〇〇人、馬三六〇疋も大きな負担となった。三月二十日を過ぎると将軍東帰にあたり先供と出迎え御用の大名の一行が続いた。
年月 | 件数 | 年月 | 件数 | 年月 | 件数 |
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12 | 10 | ||||
計 | 138 | 計 | 162 | 261 | |
下宿先 | 宿泊人数 |
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玉屋武兵衛 | 18 |
家茂の東帰については三月二十一日京都出発の回達が宿に届き、上洛と同様の用意をするよう達せられたが、二十日午後二時ごろ延期の達しがあり、二十三日には出発、その直後さらに延期と、上洛と同様情報が混乱し、そのたびに先供の御書院御小姓番・御番頭・御小姓御小納戸衆などの役人が下り、桑名宿辺から引返すことを繰り返し、混雑限りない状況であった。その後しばらく沙汰が絶えていたが、六月七日勘定奉行・勘定吟味役から二通の回達があった。ひとつは東帰に際し、夏季にわたる大通行となるので、食事について変味のないよう注意し、梅干、味噌などを見計い、香のものを添えて差し出し、昼食については上洛時の半額一人銭六三文とすること、他には宿毎に宿継人足四、〇〇〇人、馬四〇〇疋を用意し、なお臨時の徴発にも応じられるよう準備すること、東帰には石部宿は休息にあてられるとした。その後日程の変更があったが、結局大坂から軍艦で将軍をはじめ老中以下奥勤めの諸役人は東帰することとなった。供奉の諸大名と荷物類は東海道と中山道に分かれて江戸に下ることとなった。この通行も予定通りには進まず「何が何やら取り留め候事更にこれなく」、膳所藩からも役人が石部宿に出張し、人馬継立ての整理にあたっていたが、六月十七日「終(つい)に夜明前に問屋場大破れ、宿役人一人も無之、御荷物、御同勢の者宿中に山の如く積み重なり、実に筆紙に尽し難く、前代未聞の大混雑也」と本陣の主人は記している。昼になっても荷物は一荷も運ばれず、とりわけ上洛の警備を受け持った講武所の役人が威圧的な態度をとるため、継場に人足が一人も近付かない状態となった。小島金左衛門はやむなく麻上下(あさかみしも)を着て問屋場に詰め、ようやく宿役人、人馬を寄せて荷物の継立てをはじめたが、水口宿まで宿駕龍一挺金一両から一両二分を要求するなど「誠に古来未曽有の事」であった(同「宿帳」)。