おかげ参り

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一生に一度伊勢参宮する風習は、近世には西日本を中心に広く全国にみられた。知り合ったもので伊勢講をつくり、交代で参詣し、あるいは奉公人が主人に断らず、こっそり参詣する抜け参りも珍しくなかった。このような参詣が特定の年に大規模にみられることがあった。慶安三年(一六五〇)、宝永(ほうえい)二年(一七〇五)、明和(めいわ)八年(一七七一)、文政(ぶんせい)十三年(天保元年・一八三〇)の参宮がその例である。
 明和八年のおかげ参りの群集については、石部宿を十一月八日、丹波(京都府)田辺の人たちが多く通行したのをはじめとして、以後大和・山城・摂津・若狭・近江の人たちが押し寄せ、おびただしい数にのぼったと『宿帳』が記しているにとどまっているが、文政十三年については、詳しく記録しているので、『宿帳』の記事を中心に、石部宿の混雑ぶりをみたい。
 文政十三年のおかげ参りは阿波(徳島県)に端を発した抜け参りが、しだいに大規模となり、四国各地から西日本、さらには東海道・北国・木曽路にまで及んだ。一行は二〇~三〇人で組をつくり、各自が杓(しゃく)一本、ござ一枚をもち、日常の服装に前垂れだけの者、鬼の面を被る者、縮緬に金紗でお祓いを縫い散らしている者、など思い思いの服装で参加し、「所々の小道に至るまで、人々雲霞(うんか)のごとく、蜘蛛(くも)の子を散せしごとく、きやり歌を歌うやら、流行歌を歌うやら、抜け参り親はやしを致すやら、えいやえいやのかけ声は、耳にかまびすしく、平ら一面人の山、寸地の透(すき)もなく」(『伊勢御蔭参実録鏡』)という状態であった。
 石部宿でも三月に入ると阿波の抜け参りの人たちが目立ちはじめ、やがて播磨・丹波・大坂・京都さらに九州方面からの人が増し、いよいよおかげ参りかと噂している間もなく一日に何千、何万とふくらみはじめた。宿では難渋(なんじゅう)している旅人に飯湯の施行(せぎょう)をはじめた。夕方四時ごろには旅籠は一杯となり、裏屋、小屋も一軒残らず臨時の旅宿となり、宿泊できない人は番所、あぜ道で横になるものが多かった。一日にどれほどの通行人数であったか、隣宿の水口町奉行所が閏三月十五日調べたところによると、朝八時から夕方までに一万六、八〇〇人に上るが、近ごろは朝二時から八時までの通行が大変多いので、一日の通行量は二万人余となろうとしている(水口町立図書館所蔵『諸事書留』)。これらの内に石部周辺出身の人がどれほどいたかは知れないが、近畿地方からは総人口の約四〇パーセントが加わったとする見方もあり、近江は地理的に伊勢に近いこともあり、全域にわたり湧きかえっていたことは疑いない。

写112 おかげ参り 写真は文政年間のおかげ参りのにぎわいを描いたもので、多くの参詣人にまじって、三味線をひく者や、それにつられて踊る者がみられる。また、街道の店先には弁当・わらじ・餅などを施行すると書いた幟が立てられている(『御蔭参宮文政神異記』)。

 膳所藩では宿に対して、馬士・人足共一里(四キロメートル)銭一〇四文の賃をとり、高い賃銭を貪ることのないよう触れるとともに、子供ばかりの一行には特に気をつけ、宿料、売物についても高値を吹っ掛けないよう見廻り役を派遣している(『膳所領郡方日記』)。水口藩でも泉村横田川の渡船について、渡賃銭一二文のところを半額とし、施行のため一艘は無賃とした。閏三月二十二日大水で横田川の川留めとなり、難渋した人たちに施米し、水口宿坂町の芝居小屋に四五〇人を臨時に宿泊させるなどした(前掲『諸事書留』)。
 おかげ参りの人々の応待に明け暮れていた旅籠屋について、京都二条城在番渡部与右衛門は手紙に興味ある指摘をしている。道中の混雑ぶりは浅草市ほどで、追し分け通り、旅籠屋は夜だけでなく、昼の泊り客も多く、大きな旅籠屋は二・三〇〇人泊め、宿泊客は布団も枕も借りず、ようやく腕枕で休む状態に客を詰め込み、それを承知でなお旅人は泊めてくれと頼む。旅籠屋もくたびれ果て、商売続きかね、戸を閉め、宿泊お断りの札を出す始末であったが「旅籠屋共はおうもうけのよし」であり、当然街道筋の小商いも潤うところがあった(内閣文庫所蔵『文政雑記』)。
 多数の人を伊勢参宮にかりたて、狂乱させた伊勢神宮の御祓(おはらい)は「そこへも、ここへもふり候と申す噂、とかく繁花の場所へおもにふり候よし、当世は神さま迄もなかなか如才なき事と相見え申候」と、渡部与右衛門はおかげ参りに民衆をかりたてた背景に、ある人為的誘導策のからくりを、皮肉に満ちた表現で指摘している。

写113 神風講社行李 神風講指定の旅籠に置かれていたと思われる行李。神風講はおかげ参り流行のころ盛んに参宮旅行を募ったと思われ、さきの写112にも神風講の幟がみられる(石部町教育委員会所蔵)。