旅籠屋

390 ~ 391ページ
天保十四年(一八四三)の調査によれば、石部宿の旅籠屋は大四軒、中一四軒、小一四軒合計三二軒とされている。旅籠屋は一般庶民の宿泊と食事を供する施設であるが、旅人が自炊し、宿泊だけをさせる木賃宿、木銭宿も少なからずあった。

写114 商人衆定宿看板 旅籠の中には商用で旅をする人々を専用に宿泊させるところもあった(石部町歴史民俗資料館所蔵)。

 公用通行、特に大名の往還の際には本陣だけでなく、多かれ少なかれこれらの宿屋が利用された。一般の宿泊客の宿賃は一応公定されているが、客と旅籠屋との相対(あいたい)(話し合い)による場合が多い。大名往還の際家臣らが下宿として旅籠屋を利用する場合、一般の旅籠銭に比べるとかなり低額に抑えられている。しかも初めに定めた旅籠銭をさらに値切り、それに応じない場合には旅籠屋に乱妨狼藉をはたらくこともあった。そのため「大名の御泊りは、事六ヶ敷(むつかし)けれど、はたご代の宜しきによって、先達て関札の内に相待つ所に、かようの我ままに逢ふて、一夜を明られて、しかもほかの宿もならず、そのほか旅籠屋の煩ひさまざま有りて、宜しき事は少なし」(田中丘隅『民間省要』)と、面倒な部分もあるけれども、捨てがたい顧客でもあった。しかし一般には大名往還の宿泊は旅籠屋にとって賑わうものではあったが富ませるものではなかったといえよう。
 旅籠屋は旅人の気をひくために客の相手をする女性を抱えることが早い時期からみられた。当初は旅人に食事の接待をする女性であったが、やがて春をひさぐ女性に身を転じた。一七世紀半ば東海道各宿駅に対して飯盛女を置くことを禁じたが、この禁令は容易に守られることがなく、享保(きょうほう)三年(一七一八)旅籠屋では近年いたずらに多くの飯盛女を抱えているが、今後一軒に二人に限ると、数を規制するに止まり、宿における売春を否定することはしなかった(『御触書寛保集成』)。
 宿の繁栄をはかることを理由に抱えられた飯盛女は何人くらいであったであろうか。草津宿では天保九年(一八三八)六〇人、嘉永七年(安政元年・一八五四)三五人(『草津市史』第二巻)、水口宿では嘉永六年(一八五三)宿番宿一九軒に限り飯盛女二人ずつ抱え置くことが認められた(前掲『諸事書留』)。石部宿については飯盛女の人数は明らかでないが、幕末数年間の飯盛運上の金額が知れる(表24)。
表24 石部宿の飯盛運上額
年号(西暦)運上額
嘉永6年(1853)銭212貫794文
安政元年(1854)271.800.
2 (1855)262.500.
3 (1856)267.000.
「往来方諸入用勘定帳」(石部町教育委員会所蔵)により作成

 草津宿では一日銭六〇~七〇文の飯盛運上を支払わせられたが、それを石部宿にそのままあてはめたとすれば、一〇~一五人の飯盛女が抱えられていたことが推測される。飯盛旅籠屋に頻繁に出入していたのは、旅人よりむしろ地元助郷村の助郷人足であったことをうかがわせる部分もある(『駅逓志稿』)。彼らを常連客としてとれば、周辺の農村の風儀を乱すものとして問題となった。旅人にしても旅籠屋のこの種のしつこい客引きは煩しいものであった。大坂玉造清水町松屋甚四郎の手代源助は旅籠屋のこのような弊風を除くため、旅宿組合を作ることを提唱し、文化元年(一八〇四)「浪花(なにわ)講」を結成した。この講に加入した旅籠屋は「浪花講定宿」の看板を掲げ、泊客を実意をもって世話し、売女、飯盛女などを決してすすめず、客に安心して宿泊、休息してもらうことを保証するものであった。「浪花講定宿」は好評を得、主な街道の宿には数軒の定宿の看板がみられた。石部宿では扇屋孫右衛門・大黒屋善十が知られていた。

 


写115 浪花講定宿帳
 浪花講指定の旅籠の紹介のほか、旅行するにあたっての心得などが記されている(石部町歴史民俗資料館所蔵)。