開帳の立札

392 ~ 394ページ
堂舎を普請する場合、寺院はその費用を捻出するため、秘仏などを開帳し、宿内や往還の人びとの助成を仰ぐことがあった。
 本堂の葺き瓦が大破した元禄(げんろく)七年(一六九四)、常楽(じょうらく)寺では、本尊を開帳して仮普請を行った。また同寺では釣鐘勧進のため、元禄十年(一六九七)秋、脇仏の釈迦仏像を拝観させ、さらに翌十一年には二月十日から三月晦日まで、柑子袋(こうじぶくろ)(甲西町)で「出見世(でみせ)」すなわち出開帳を催して、往還の人びとに助成を請うている。
 このように、遠近の古寺名刹は修復などのため、本尊開帳や特別の法要などを催したが、その案内を宿場や往還人の目に触れやすいように立札をたてて、参詣を募った。『膳所領郡方(ぜぜりょうこおりがた)日記』には各宿場から出された立札願いが書きとめられている。以下、これによって石部宿にどのような立札がたてられたかをみておこう。
 文化九年(一八一二)四月、石部宿に願隆(がんりゅう)寺(水口町大字松尾)の立札がたてられたが、それは同寺において西国第三十三番札所美濃(みの)国谷汲(たにくみ)山の本尊観世音菩薩像、その他霊仏霊宝が五月八日から同十七日まで出開帳されることを知らせたものであった(写116)。

写116 出開帳立札
(『膳所領郡方日記』)

 また文化十一年(一八一四)一月、岩根村(甲西町)正栄(しょうえい)寺本尊引接(いんじょう)阿弥陀如来が開帳されることの立札をたてる願書が石部宿庄屋福島新次郎・服部仁兵衛から奉行宛に出され、同年六月、栗太郡小野村(栗東町)の小野(おの)寺が七月十六日から二十五日までの一〇日間、永代無縁経五〇年目惣(そう)回向を行い、本尊正観音菩薩を開帳し、霊宝などを拝観させる旨の立札を石部宿にたてることの願書が庄屋服部仁兵衛・小島金左衛門から同じく郡方奉行に出されている。
 文化十三年(一八一六)八月、正福寺村(甲西町)の正福(しょうふく)寺において、同月二十八日から閏(うるう)八月十一日まで開帳があり、石部宿に立札がたてられた。翌文化十四年(一八一七)、水口宿の大岡(だいこう)寺(水口町)で二月十八日から三月九日まで本尊観世音菩薩像の開帳と霊仏霊宝の展観があり、その立札が石部宿に一月二十五日からたてられた。
 弘化(こうか)三年(一八四六)三月にも正福寺開帳の立札の願いが庄屋藤谷治三郎、福島仲次から奉行宛に出されているが、その内容は同年四月一日から同年十五日まで本尊大日如来を開帳し、あわせて観世音菩薩像をも拝観させようというものであった。同年七月、小野村万年(まんねん)寺において開帳を企て、その立札を石部宿で建立する旨の願いが庄屋吉川小八、藤谷治三郎から出ている。
 翌弘化四年(一八四七)八月には、虚無僧(こむそう)寺の遠江(とうとうみ)国普大(ふだい)寺の役僧と石部宿との間で、八月十一日に虚無僧が尺八勧進することが相談され、郡方奉行の許しをえて、宿の東西両入口に「遠州普大寺、吹笛留場」の立札がたてられた。虚無僧の尺八の音が町に響いた様子が察せられる。また万延(まんえん)二年(文久元年・一八六一)二月中旬、水口宿の大岡寺で富士権現内拝があり、そのことを知らせる大岡寺役者からの立札が石部宿にもたてられた。
 このように、宿場には近隣の寺院で催される開帳などを知らせた立札がたてられ、これを見た人びとは互いに誘い合い、開帳の霊仏霊宝などを参観したのであった。日ごろ直接参詣する機会に恵まれない庶民にとって、遠近問わず、出開帳はまたとない好機であった。宿場内にたてられた立札は、まさに近世宿場における信仰的一点景であった。