『膳所領郡方日記』によってその例をあげてみよう。享保(きょうほう)六年(一七二一)善隆(ぜんりゅう)寺では堂宇が大破し、檀家のみでは修復が困難なため、同年二月二十四日、郡方奉行に「此度町末縄手ニ而往来之奉加仕度段」の願書を差出し、許可されている。善隆寺はすでにのべたように貞享(じょうきょう)元年(一六八四)、町裏から石部家清の居館跡に移されていた。このときの本堂棟札には次のように書かれていた(『善隆寺記録』文化六年改)。
(上段)
当寺往古者町裏ニ有之、在家ニ近シ故ニ願二替地一、則此地拝領之
建立常然無衰無変 当山拝領
南無阿弥陀佛 本田隠岐守従五位下藤原康慶公
不可思議載永劫 之大檀那
供養師 金勝阿弥陀寺起蓮社建誉秋察直愚大和尚
貞享元甲子初冬十五日 中開南基本蓮社懐挙秋存和尚
(中段)
元庄屋
御取次御郡代 山本市郎左衛門
本陣
高橋彦左衛門幸広 三大寺小右衛門
庄屋
内肝煎南玄光光実 山本権兵衛
元問屋
大工棟梁内貴佐兵衛尉 吉川伝右衛門
三大寺儀左衛門
青木与兵衛
武田兵次 法名浄閑
(下段)
年行事
山本九兵衛 中路庄次郎 服部仁兵衛
服部勘兵衛 山本七郎兵衛 山本伊兵衛
中路市良兵衛 武田七兵衛 谷口文左衛門
谷口長助 服部作蔵 山本吉左衛門
奥野宗兵衛 大田庄兵衛 大田宇兵衛
仁蔵 角兵衛 喜兵衛 吉兵衛
六兵衛 藤七 九左衛門 八蔵
九蔵 才蔵 平八 権三郎
長左衛門
このような本堂が四〇年ばかりの間に「及二大破一候」とは少し解し難い。再建を必要としたのは主として庫裡(くり)であった。本堂の方は『善隆寺所蔵文書』に
一、其寺依レ願、寺号之御額并菊御紋附丸挑灯弐張、御寄附被レ為二成下一候間、難レ有存知、後々迄茂不レ成二麁末一候様被二申伝一尤ニ候、為二心得一申渡候處、如レ件、
寶鏡寺宮御内
享保四年亥三月 池田監物
江州甲賀郡石部駅
善隆寺江
とあるように、宝鏡寺宮真筆の寺号額などが下賜されるなど次第に整えられていたが、まだ不十分であったようである。ちょうどこのころは晨誉専良の代であり、右の『善隆寺記録』に「鎮守ノ御社、後門ノ石庇、双鉦壹ツ建立、本堂ノ前石壇、又表ノ石橋、施主村治氏、其外廊下庫裡之再興、本尊来迎柱ハ此代ニ調置、又右馬之丞(石部家清)為二追善一四十八夜説法有レ之」とあるように、庫裡の再興、本堂の境内鎮守社などの整備が進められた時期であった。通行人の奉加はこれらの事業の完遂に大きな助けとなったのである。
これより約一〇〇年後の文政八年(一八二五)、再び本堂・庫裡などが修復されたが、このときも「縄手奉加場」で往来の人びとに対して勧募されたことが、「当山再建諸造用惣入高控」(『善隆寺所蔵文書』)に「銀壱貫百七拾八匁三分三厘 右者酉正月より七月迄之奉加有高、九貫八百十文、酉七月より同年寒中之分弐拾九貫三百四十五文、戌年縄手奉加場之分八貫百八十三文、七月より亥ノ七月迄四拾三貫弐百廿八文、月並寒中有高亥ノ七月より十月迄五貫八百十五文、月並有高、秋近在奉加百六十匁、六組より貰高、当春縄手奉加場 拾貫八百九文、右之口〻合百七貫百八拾九文、銀〆高也」また支出分に「同(銀)百九拾七匁三歩七厘 右者縄手奉加場一件、但しわん代共諸入用拂」などと記されているのでわかる。
また、蓮乗(れんじょう)寺でも本堂が破損し、「自力ニ而修覆出来(しゅったい)難渋ニ付」き、文化十一年春より三年間、石部宿の東入口の近くに奉加場を設け、ここで「往来之旅人」に「助成相願候而奉加仕」りたき旨の願いをもち、その申請が当時の庄屋福島新次郎・服部仁兵衛から奉行に出されている。
奉加場は、上の町(大亀町から東清水町)にある寺院ならば東入口付近で、下の町(谷町から西横町)に属する寺院は縄手のように西側の町末に仮設され、往来の人びとに助成を請うたのである。
真明(しんみょう)寺もまた本堂が古くなり大破したとき、たとえば天保二年(一八三一)に修復することになったが、そのときは奉加場をこの年から一二ヶ年設け、往来人の助成を乞うこととし、この旨を同年二月、真明寺・同旦那惣代清右衛門・同長蔵・庄屋藤谷次右衛門・同又八ら連署して郡方奉行に願い出ている。弘化三年二月、西福(さいふく)寺では表門再建のため、門前に一間余の奉加場を仮設し、往来の旅人から喜捨を受けている。
このように、堂舎の修復にあたって、往還の旅人から奉加金を受けようとし、またそのことが可能であったのも、宿駅の寺院なればこそであった。