浄瑠璃は三味線を伴奏楽器とした語り物の総称で、室町時代におこり江戸時代に完成したが、竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が新しい曲風を創め、貞享元年大坂道頓堀に竹本座を創立して人気を集め、のち浄瑠璃といえば義太夫節を指すようになった。また義太夫と提携した近松門左衛門によって内容が劇的に高められ、やがて義太夫以前のものは古浄瑠璃、以後のものは当流浄瑠璃、または単に浄瑠璃とよばれた。
石部宿内で興行された浄瑠璃も大坂におこった義太夫節の系統のものである。『膳所領郡方日記』によれば、文化・天保のころ再三興行されているので、その節回しなどに人気の高かったことが察せられる。
文化八年(一八一一)八月十八日から二十日までの間、浄現(じょうげん)寺で浄瑠璃が興行されたが、これは「浄現寺借財済方之助成ニ仕度」きためであった。また天保十年(一八三九)八月十五日から三日間、明清(みょうせい)寺の本堂で興行されている。弘化二年(一八四五)七月には、当初植田(うえだ)明神の境内で興行される予定であった浄瑠璃が、支障あって場所を浄現寺本堂に変更し、七月十六日から三日間興行された。会場に寺院が選ばれた理由のひとつは天候に左右されずに興行できるという利点にあった。
弘化三年、西福寺で表門修復借財のため、浄瑠璃が三日間興行されている。また蓮乗寺の本堂修復助成のため嘉永(かえい)五年(一八五二)十一月十六・十七の両日、浄瑠璃の興行があった。
また、経済的困窮を売薬で乗り越えようとする寺院があった。明清寺には家伝の「安身長寿散」なる薬があり、「産前産後、血之道一切」に効能があった。この「妙薬」を「旅人之ため、将又(はたまた)困窮寺之儀ニ御座候間売弘(ひろ)め」ようとして、明清寺の門前、往還の片脇に看板を出すことの願書を、庄屋服部仁兵衛、同小島金左衛門の添書をも得て、文化十三年九月に郡方奉行に出している。
写117 明清寺売薬効能書(木版刷) 皮癬の薬を調剤し、売り出したもの(石部町教育委員会所蔵)。