旅人の病没と旅三昧

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旅宿で病死者が出た場合、石部宿(問屋、同助役、庄屋)より膳所藩の郡方奉行へ、病死者、死亡状況、葬地などについて届書が出され、道中奉行へも同じことが注進された。また病死人のあった宿屋は当人の主筋へ連絡、現地での葬送について承認を得るなど、手順を重ねて処置していた。
 天保七年(一八三六)八月十六日、大坂御番横田筑後守組久保豹三郎が扇屋孫左衛門方で、医師嶋本龍也の手当の甲斐もなく病死した。附添の近藤勝五郎・酒井左太夫から宿役人へ葬地の斡旋方が依頼され、善隆寺の境内に葬送された。この一件は問屋五郎兵衛、名主治郎兵衛、宿主扇屋孫左衛門と酒井左太夫・近藤勝五郎との間で証文が取り交わされ、石部宿から郡方奉行と道中奉行へ届出があり、宿主からも久保豹三郎の主筋へ注進された。
 これらの一件書類は『膳所領郡方日記』に書きとどめられているが、善隆寺の過去帳にも「慈光院愍誉故岳日秀居士 大坂御番久保豹三郎 三十五才」と出ている。
 このように道中、石部宿で死亡した者は宿内寺院の取りもちで境内墓地その他に葬られたが、その名は寺院過去帳にとどめられている。たとえば善隆寺の過去帳から大名家臣やその下人などを摘記したのが表25である。
表25 石部宿内での大名家臣・下人の病没
死亡年月日氏名戒名
貞享三・八・十一梅戸権太夫[伊予今治 松平駿河守家臣]観誉了心還智居士
正徳四・十・十九後藤弥七[肥後熊本 細川越中守後藤孫助子息]覚道浄本信士
元文二・閠十一・八梅戸彦右衛門[伊予今治 松平駿河守家臣]梅岳院秀山浄薫居士
寛延三・五・十五小野発助[筑前秋月 黒田甲斐守家臣]即蓮社心誉日秀居士
宝暦元・八・七金蔵[大坂大御番加番 増山対馬守]穐岸了頓信士
明和四・八・三田中清右衛門[長門萩 松平膳太夫家臣四十八歳]通性院観誉門隆玄達居士
安永二・五・二十五庄野源八郎[阿波徳島 松平阿波守家臣二十八歳]廓法院然誉林刹居士
天明七・四・十三北原嘉兵衛[薩摩鹿児島 松平薩摩守家臣]清山浄雲居士
寛政元・五・十三佐七[丹波園部 小出信濃守足軽三十五歳]夏屋清林信士
寛政元・十二・一藤井藤右衛門[長門萩 松平膳太夫家臣]光照院応雪妙感居士
天明八・三・十二源蔵[長門府中 毛利甲斐守小人頭三十歳]法実了味信士
享和二・十一・九清水五郎兵衛[下総古河土井大炊守家臣 宿坊江戸湯島長香寺也]融真院実誉守円居士
文化三・四・十五宮重八郎右衛門[二条大御番組頭 四十四歳]真形院殿光誉明山法雲居士
文化三・八・三原田治助[出羽松山 酒井大学頭臣]還誉到安養伝居士
文化十一・七・二十七与右衛門[大坂大御番 加藤大和守]紫月雲晴信士
文政三・三・二十土屋惣八郎[二条大御番戸田和泉守組 二十九歳証人小野五左衛門坂部左京]天光院真挙実雲了照居士
文政十・三・十九正木伊之助[土佐高知 松平土佐守家臣三十四歳]照誉見寂道山居士
文政十一・六・二十三久兵衛[酒井飛驛守 中間五十六歳]夏月了山信士
文政十二・五・六鉄平[二条大御番池田甲斐守組 加藤満之丞]夏月了照信士
文政十三・八・一伝助[大坂大御番加番 松平山城守中間]本迎浄接信士
天保四・七・十一根本宇門[讃岐高松 松平讃岐守家臣二十八歳]清光院浄挙洗心居士
天保四・十二・二橋本市右衛門[阿波徳島 松平阿波守四十六歳]寂岸静意信士
天保六・四・二十六氏田理平太[伊予吉田 伊達紀伊守足軽三十八歳]専向会道信士
天保六・七・二十八長谷川与七郎[伊予国松本 松平隠岐守家臣]一向浄念居士
天保七・八・十一久保豹三郎[大坂大御番 三十五歳]慈光院愍誉故岳日秀居士
天保十三・十一・七安宅甚太郎泰正[美作津山 松平参河守家臣三十八歳]隆恭院温誉謙光良道居士
弘化元・七・十三西村金蔵[但馬出石 仙石讃岐守陸尺]関山超生信士
弘化二・八・十六佐助[大坂大御番稲垣安芸守 与力深井六三郎中間]観光念徹信士
弘化四・四・二十六松下杢太郎[筑後久留米 有馬中務大輔家臣]博了院愛誉仁道義然居上
安政四・八・十二木下栄益[豊前小倉小笠原伊予守家臣 高尾立蔵勤之墓所谷三昧]宗岳浄栄信士
安政四・八・十七河村亦十郎[大坂大御番]大乗院運誉載安浄刹居士
文久元・三・二十六谷本宇石衛門[伊予大洲 加藤於兎三郎足軽]真覚義勇信士
文久二・七・二十五横田順蔵[因幡鳥取 松平相模守家臣]仁山義海居士
元治二・八・十四三橋藤右衛門[大坂大御番証人小野朝右衛門 横地藤十郎宇都野源次郎]蓮迎院英誉紫雲雄道居士
慶応二・五・二十五倉橋幸之助[陸奥会津 松平肥後守家臣四十八歳]天真院実雲了晴居士

 また、墓地には寺院墓のほかに「旅三昧(たびざんまい)」があり、百姓・町人や、その子女などはここに葬られた。天保九年(一八三八)四月、二条城番衆鈴木安五郎と京都御池油小路の竹屋七郎兵衛の娘きととが密通し、石部宿西縄手で心中事件を起こしたことがあった。鈴木安五郎はけがだけですみ、きとは横死した。二条城より役人が派遣され、吟味の上安五郎は江戸表へ引戻されることとなり、きとは旅三昧に埋葬された。四月十八日のことであり、真明寺の弔いであった。同寺の過去帳には「徴笑妙願信女 俗名キト 十八才」とあり、右の経緯が書き添えられている。
 天保十四年(一八四三)三月五日、当宿で没した宇田村鍛冶屋宗兵衛も真明寺のとりおきで旅三昧に葬られた。このように、旅の道中で亡くなった衆庶を埋葬する「旅三昧」があったことは興味深い。
 宿内の他の寺院の過去帳からも多くの事例をあげることができるが、いま真明寺の過去帳から若干例を摘記してみると、左のとおりである。
天保元年四月十五日
夏屋妙念信女五十七 会所ゟ申来、参宮ノ者ニテ、庄次下役、丹波イヅシ郡アイタ村百性孫七母ちよ、禅宗安国寺旦那

天保元年八月一日
本迎浄接信士六十才  三万五千石松平山城守家来山田助十良下人伝助事、善ルス名代、三大寺引合、一札取

天保十一年七月廿八日
太清居秀外一拳居士 尾州熱田駅中町鈴木七左衛門長裕、行年四十七才、扇屋ニ而死、具記録ニ有ル

天保十一年十二月廿八日
 愍誉常観信士  俗名多吉事、行年四十七才
右者勢州松坂ノ住人、本町権右衛門ニ止宿致候処病気ニ而養生不相叶、右ニ付町役人親類連印一札差入頼候ニ付吊事

安政二年十月十一日
山ノ墓ニ而土葬致ス 喜誉貞道信女 浄土宗ニテ血脈持参、依テ号アリ、山ノ平四郎ヨリ頼ミ来ル、三州新城邑大善寺往来手形有之、源右衛門妻

安政四年八月十二日
宗岳浄栄信士  小倉藩中、木下栄益コト、右之仁中町田村屋十兵衛宅ニ止住、病死、則御本陣小嶋氏ヨリ頼ニ依テ如例一札取置、吊フ事

文久二年九月十六日
 寺下墓 頓覚明悟信士 尾州知多郡富貴邑、甚左衛門忰久治良事
右之者大坂表エ奉公に参リ居、当駅横町立花ヤ与左衛門宅ニ而相果、仍是当山エ願出、一札取置キ相吊フコト