神社境内での花相撲

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神社では古くから農作の豊凶を占う神事相撲が行われていたが、近世では娯楽性を強くした相撲が盛んとなり、力自慢の者たちにより野相撲が各地で行われた。勝った力士には祝儀の金品(纒頭、はな)が見物人から贈られたが、しだいに興行として営利性をおびるようになった。
天保六年(一八三五)三月、隣村の柑子袋村平八が植田明神境内での「草相撲興行」のための「地借り」を申し出ているが、同年六月にも同じく柑子袋村の勘治が「花角力興行」を植田明神境内で行おうとした。二十四日晴天ならば境内を借りて相撲を興行しようとするもので、庄屋に借地の願い出があり、開催予定日に先立つ同月八日、庄屋福島治郎兵衛、同植村仁左衛門から膳所藩郡方奉行へ、勘治の借地興行の許可願いが出ている。柑子袋村の興行元が見物人が多く集まる宿場の神社境内に目をつけたわけである。このような草相撲はやはり営利性の強いものであった。
 植田明神の境内で行われた花相撲の中には、住民の経済的な不如意を助けるために町役の主催で行われるものもあった。弘化五年(嘉永元年・一八四八)三月三日に行われた「花角力興行」は、うち続く不幸で難渋していた西清水町の卯兵衛を助けようとして、同町の町役が催したもので、やはり植田大明神の境内で行っている。
 嘉永五年八月二十六日に「植田氏神」で行われた相撲もまたこのようなものであった。中清水町の富吉の困窮を救おうとして「近村入魂(じっこん)之者」に頼み、町役が興行したのである。石部宿近隣の相撲にうちこんでいる力自慢のものを集めて花相撲を行い、その収益で生活に難渋しているものを少しでも救済しようとの目的をもった興行であった。
 このように、娯楽や、貧民救済をも兼ねた草相撲、花相撲が興行された日の植田大明神の境内には、宿場の住民や往来の人びとも集まって、相撲愛好の熱意を一日中あふれさせたのである。