社参と宿場

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伊勢神宮へ御蔭(おかげ)参り、抜け参りをする多数の老若男女が石部宿を通って行った。抜け参りというのは親や主人の許しを得ず、旅行手形もなく家を出たものである。『膳所領郡方日記』には抜け参りや巡礼・社参する人びとのことがしばしば登場する。年代順にその様子をみておこう。
 甲州府中の町人、飯田新町の喜三郎は讃岐金毘羅(さぬきこんぴら)社参ならびに四国順礼のため国元を出発、下向のとき病いにかかり、文化三年(一八〇六)三月、石部から国元へ帰らされることになった。また文化九年三月、安芸(あき)国小谷村から伊勢へ抜け参りする女連(づ)れ二人があり、東清水町の清蔵借家方に止宿したが、このうち一人が急病で死亡することがあった。
 文化十四年四月にも伊勢参宮の旅人が当宿で病気養生し、病死にいたっている。翌年にも金毘羅神社へ参った帰りに病いとなり、石部宿に逗留し養生をしたものがあった。
 文政十三年(天保元年・一八三〇)には伊勢参宮の人びとが特におびただしく、宿料、売物などが高騰したので、閏三月に「旅籠(はたご)法無之」きよう、また高値をふっかけないように見廻りすべきことが宿に命じられている。また宿場の方でも「幼年之者斗(ばかり)ニ而途中難渋」のものには手助けしている。伊勢参宮の途中、当宿で病気になるものも出た。同年四月には播磨(はりま)国加東郡西脇村の百姓が病に倒れている。天保二年四月、陸奥(むつ)国から伊勢参りをし、さらに上方へ上ろうとした旅人が病気になって石部宿で介抱されている。
 宿場には喧嘩も絶えない。弘化二年四月、大坂と河内国のものが、双方四、五〇人ばかり、参宮のため下向していたが、石部宿内で通りがかりに喧嘩をするという事件があった。
 嘉永三年(一八五〇)、安芸国豊田郡惣定村の百姓喜代蔵六十一歳、同娘りと三十三歳、同孫かう九歳の三人が西国順礼の旅に出ていたが、喜代蔵が途中で病気となった。当人が往来手形を持っていたので当宿で番人に介抱させていたが、五月十九日に死亡してしまった。同五年(一八五二)四月十九日に、高野山から秋葉山ならびに伊勢参宮をしていた紀伊国伊都郡加津日村の西村八右衛門七十五歳が石部宿で発病、病死している。
 嘉永六年(一八五三)安芸国沼田郡長性寺の説誉と弟子学淳、それに尼僧貞念とが諸国順拝に出たが、学淳が発病、快気はしたが歩行不能となり、当宿から村継送りとなった。
 このように、宿場には旅行者の発病、病死という悲劇もあり、社寺巡拝の人びともこの悲運からは避けられず、宿駅の諸役、寺院にとっても心痛むことであった。