火伏せの愛宕小社

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京都の西北隅に位置する愛宕山に鎮座する愛宕神社の祭神はもっぱら火の神迦遇槌(かぐつち)命を中心に鎮火神(火伏せの神)として尊崇され、地方にもひろく分祀勧請(かんじょう)されている。庶民の家々でも竈(かまど)神として祀られ、崇敬者たちは講を組織して愛宕社へ代参(だいさん)を行い、護符と樒(しきみ)をもち帰り、火災から免れることを祈った。
 石部宿では上横町の愛宕社の勧請が最も古く、屋根瓦に「天明四甲辰閏正月日」「瓦工水口福田六兵衛、田川○(穴)見世」と彫られ、他の建築物からの転用ともみられないので、江戸中期の天明四年(一七四〇)には存在したことが明らかである。瓦葺以前の小祠の存在も考えられるので、あるいはさらにさかのぼるかもしれない。
 ではなぜ石部宿内で上横町にはじめて愛宕小社が勧請されたのであろうか。これを考える上で参考になるのは、宝暦(ほうれき)五年(一七五五)三月二十一日に上横町で出火があり、三一軒焼失していることである。この大火と愛宕社の祭祀とが関係あるように思われる。火元の上横町でまず火伏せ神が祀られたのである。
 享和三年(一八〇三)の「往還通絵図并間数改」(『山本恭蔵家文書』)には、一里塚の横に番所があり、その「番所坂ノ上ニ愛宕社有」りと書かれている。しかしながらこの位置は現在西横町にある愛宕社の位置とは相違している。はじめ別の所にあったのが、のちに現在の位置へ移されたのかもしれない。
 現在ある宿内他町の愛宕小社については建立の時期が明らかでないが、宿場にとって最も警戒しなければならないのが火災である。宿全体に火災を防ぐ方法のひとつとして、各所に愛宕神社が祀られたのであろうが、その建立場所を江戸時代の町並図と対比すると、だいたい空地ないし「火の番所」の位置と合致している。
 火災の難を避けようとする宿場の人びとの強い意思が上横町・西横町以外の町でも空地または火の番所を利用して順次愛宕小社を勧請し、火伏せの祈りを寄せることになったのであろう。

写118 愛宕社(上横町)屋根瓦