伊勢神宮の御札降り

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江戸幕府崩壊の直前、慶応三年(一八六七)秋から冬にかけて、江戸以西の各地で「ええじゃないか」の囃子(はやし)に合わせた熱狂的な踊りが流行した。この「ええじゃないか」は世直しを熱望する一種の大衆運動の様相を呈していた。伊勢神宮や諸国の神々の御札降(おふだふ)りなどの神異をきっかけに、世直しを神意と受けとめた民衆が降下のあった家へ踊り込んだのであった。
 御札降りは東海道宿場筋を中心としてみられたが、草津市上笠(かみがさ)町小森ます家所蔵『よろつにわかにみる日記』によれば、京・大坂は慶応三年十月二十五日より降り、草津宿では渋川屋へ春日神社の御札、山源の家へは天照皇太神宮の御札が降り、石部宿では十月二十九日に御札降りがあったという(田中淳一郎氏「〈ええじゃないか〉ふたたび」『草津市史のひろば』所収)。
 石部に関する部分は「又石へ(部)のひら松やの内へハ十月の廿九日のあさ御ふた様か御ふり遊ハし候よし儀等たいへんな事に候」とあり、十月二十九日朝平松屋に御札降りがあったと記されている。しかし同記録は伝聞による記述が多く、この石部平松屋のこともそうであって、事実は十一月十九日の降札であった。

写119 「よろつにわかにみる日記」
(『小森ます家文書』)

 平松屋の子孫福島隆輔家に御札降りについての記録がある。同家の「降神諸事扣(ひかえ)」によれば、慶応三年十一月十九日卯の刻(午前六時前後)、谷町の福島仲次家へ天照皇太神宮の御札が降ったのである。御札は写120のようなものであった。

写120 神札図 慶応3年11月19日に天降った皇太子神宮の神札を書き留めたもの(『福島隆輔家文書』)。

 降下のあった同家では、十九日から二十一日までの三日間、神祭りを行い、訪れる人ごとに酒、飯を出し、その入用高は酒一石、米一俵、雑用およそ一五両に達した。
 降札を知った近隣の家々からは酒・餅・御膳・丁子麩(ちょうじふ)・密柑(みかん)・昆布・柿などの御供物、祝いの品々が届けられた。神祭りが終ってから供えてあった餅の鏡開きがあり、谷町・仲町・出水町・大亀町の各戸へ残らず配られた。
 福島仲次家と米炭など商取引のあった植村慎兵衛から降札直後の十一月二十五日に出された書簡には、貴家への太神宮の「御天降」は「誠ニ御吉事之儀」であると悦びの意が伝えられ、最近の諸方への御降臨は有難いことだとのべ、さらに「当地も凡(およそ)六七拾ヶ所も神々御降臨有之、其中ニ者不思議之御利験も有之候」とその地の様子を伝え、「何卒此上神力を以御代泰平ニ治リ候様奉祈候事ニ御座候」と、世直し変革によせる期待を伊勢神宮に寄せている。神力による世直し希求は、植村慎兵衛ならずとも降札のあった福島仲次自身の気持ちでもあった。
 神札降臨の噂を聞いた人びとは、これをきっかけに「ええじゃないか」の乱舞となり、お札降りの家へ踊りこんだのであるが、いま福島家にはこのことを伝える史料がない。しかし他の所と同じように、降札を祝い、神祭りが行われた三日間、石部宿中に「ええじゃないか」の乱舞があったことであろう。