大助郷定助郷

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幕府は交通が滞ることのないように、宿に一定の人馬継立の負担をさせるとともに、これで不足する場合、宿周辺の村々に人馬の負担をさせることがあった。初めは「大助郷(おおすけごう)」として、参勤交代など大規模な通行があるとき、臨時に必要とする人馬の提供を義務付けたものであった。元禄(げんろく)七年(一六九四)二月、東海道の諸宿の助郷が定められ、助郷勤高一〇〇石につき人足二人、馬二疋が徴発されることとなり、その後享保(きょうほう)十年(一七二五)に至り、当初の大助郷と常時宿の補助にあたる定助郷の別はなくなった。このとき石部宿には周辺二六ヶ村勤高一万四、八五九石が定助郷として付属した(表26)。大助郷二六ヶ村は街道筋からあまり離れることのない村々ではあるが、実際に人馬役を負担する場合、宿役を勤めたことのある馬に一疋銀二匁三分の借り賃を払って役に応じている。この人馬賃銭の負担はどれほどであったであろうか。元禄十一年(一六九八)十一月大助郷二六ヶ村の惣代が道中奉行に願い出た「乍恐謹而御訴訟(おそれながらつつしんでごそしょう)」(『竹内淳一家文書』)という文書によってみよう(表27)。
表26 石部宿定助郷
村名助郷高村名助郷高
甲賀郡西寺村343観音寺村151
東寺村427井上村100
柑子袋村1,268金勝中村541
平松村379上山依村400
針村384上砥山村653
正福寺村668伊勢落村358
菩提寺村850林村915
夏見村1,113六地蔵村1,123
吉永村413土村346
岩根村1,260今里村141
野洲郡北桜村520辻村507
三上村1,167小坂村314
妙光寺村33414,859
栗太郡東坂村184
「役用記」『三大寺光家文書』により作成

表27 大助郷26ケ村の人馬賃銭負担額
元禄7(1694)銀11貫788匁余
  8(1695) 18貫907匁余
  9(1696) 21貫981匁余
  10(1697) 30貫328匁余
  11(1698) 34貫259匁余(ただし、10月まで)
元禄11年(1698)11月「乍恐謹而御訴訟」『竹内淳一家文書』より作成

 年ごとに負担が増加していることがはっきりとうかがえる。わずか五年で三倍以上に負担が急増している状態を訴え、負担軽減の方法について具体的に訴えた。それによれば、助郷役は賃銭を払って人馬を調達し、負担しているから、助郷村の設定は石部宿との距離の遠近は問題とならない。石部宿の近隣にはいずれの宿役も勤めていない村が三〇ヶ村、村高にして二万二、一〇〇石もあり、これらの村にも新たに宿役を負担させれば、これまでより助郷役は軽くなるとして、村名・村高を書き上げ、絵図を添えて願い出た。内容は具体的で説得力のあるものではあったが、元禄期には周辺の宿でもこの種の要求は認められなかったようである。その後個々の村が負担の過重を訴え、領主側から負担の一部用捨、あるいは助成を引き出してくる動きが多くなる。
 享保十七年(一七三二)西日本を中心に長雨と蝗害(こうがい)による大凶作に見舞われ、そのため米価が高騰し、疫病の流行もあって多数の餓死者が出た。幕府は被害の大きかった所領の大名に対し、その所領高に応じて恩貸金を貸し付け、領民の救恤(きゅうじゅつ)を図った。石部宿の定助郷二六ヶ村の領主関係は複雑に入り組んでいるが、この年それぞれの村は領主に救済を要求し、その実現をみている(『竹内淳一家文書』)。栗太郡六地蔵(ろくじぞう)村・土村(どむら)・今里(いまざと)村・小坂(おさか)村(以上酒井雅楽頭領)・甲賀郡針村(はりむら)(石川主殿領)は人馬賃銭助成、栗太郡妙光寺(みょうこうじ)村(市橋下総守領)は人馬賃銭を免相(年貢率)により用捨、甲賀郡岩根(いわね)村・平松(ひらまつ)村(以上天領)は免相の三〇パーセントの救米給付、野洲郡北桜(きたざくら)村・三上(みかみ)村・甲賀郡夏見(なつみ)村・菩提寺(ぼだいじ)村、栗太郡砥山(とやま)村(以上旗本領)は救米、栗太郡辻(つじ)村・林(はやし)村・伊勢落(いせおち)村・東坂(ひがしさか)村・観音寺(かんのんじ)村・金勝中(こんぜなか)村・上山依(かざまわり)村・井上(いのうえ)村(以上本多隠岐守領)、甲賀郡吉永(よしなが)村・柑子袋(こうじぶくろ)村・東寺(ひがしてら)村・西寺(にしてら)村・正福寺(しょうふくじ)村(以上天領)は助郷高の二〇~三〇パーセント用捨米の給付がそれぞれ行われたが、この程度では困窮した農民を救うに十分でなかったことはいうまでもない。

写121 人足と馬 東海道五十三次之内「石部」(広重画)
(石部町歴史民俗資料館所蔵)