村名 | 助郷高 | 村名 | 助郷高 |
---|---|---|---|
甲賀郡西寺村 | 343 | 観音寺村 | 151 |
東寺村 | 427 | 井上村 | 100 |
柑子袋村 | 1,268 | 金勝中村 | 541 |
平松村 | 379 | 上山依村 | 400 |
針村 | 384 | 上砥山村 | 653 |
正福寺村 | 668 | 伊勢落村 | 358 |
菩提寺村 | 850 | 林村 | 915 |
夏見村 | 1,113 | 六地蔵村 | 1,123 |
吉永村 | 413 | 土村 | 346 |
岩根村 | 1,260 | 今里村 | 141 |
野洲郡北桜村 | 520 | 辻村 | 507 |
三上村 | 1,167 | 小坂村 | 314 |
妙光寺村 | 334 | 14,859 | |
栗太郡東坂村 | 184 | ||
11(1698) | 34貫259匁余(ただし、10月まで) |
年ごとに負担が増加していることがはっきりとうかがえる。わずか五年で三倍以上に負担が急増している状態を訴え、負担軽減の方法について具体的に訴えた。それによれば、助郷役は賃銭を払って人馬を調達し、負担しているから、助郷村の設定は石部宿との距離の遠近は問題とならない。石部宿の近隣にはいずれの宿役も勤めていない村が三〇ヶ村、村高にして二万二、一〇〇石もあり、これらの村にも新たに宿役を負担させれば、これまでより助郷役は軽くなるとして、村名・村高を書き上げ、絵図を添えて願い出た。内容は具体的で説得力のあるものではあったが、元禄期には周辺の宿でもこの種の要求は認められなかったようである。その後個々の村が負担の過重を訴え、領主側から負担の一部用捨、あるいは助成を引き出してくる動きが多くなる。
享保十七年(一七三二)西日本を中心に長雨と蝗害(こうがい)による大凶作に見舞われ、そのため米価が高騰し、疫病の流行もあって多数の餓死者が出た。幕府は被害の大きかった所領の大名に対し、その所領高に応じて恩貸金を貸し付け、領民の救恤(きゅうじゅつ)を図った。石部宿の定助郷二六ヶ村の領主関係は複雑に入り組んでいるが、この年それぞれの村は領主に救済を要求し、その実現をみている(『竹内淳一家文書』)。栗太郡六地蔵(ろくじぞう)村・土村(どむら)・今里(いまざと)村・小坂(おさか)村(以上酒井雅楽頭領)・甲賀郡針村(はりむら)(石川主殿領)は人馬賃銭助成、栗太郡妙光寺(みょうこうじ)村(市橋下総守領)は人馬賃銭を免相(年貢率)により用捨、甲賀郡岩根(いわね)村・平松(ひらまつ)村(以上天領)は免相の三〇パーセントの救米給付、野洲郡北桜(きたざくら)村・三上(みかみ)村・甲賀郡夏見(なつみ)村・菩提寺(ぼだいじ)村、栗太郡砥山(とやま)村(以上旗本領)は救米、栗太郡辻(つじ)村・林(はやし)村・伊勢落(いせおち)村・東坂(ひがしさか)村・観音寺(かんのんじ)村・金勝中(こんぜなか)村・上山依(かざまわり)村・井上(いのうえ)村(以上本多隠岐守領)、甲賀郡吉永(よしなが)村・柑子袋(こうじぶくろ)村・東寺(ひがしてら)村・西寺(にしてら)村・正福寺(しょうふくじ)村(以上天領)は助郷高の二〇~三〇パーセント用捨米の給付がそれぞれ行われたが、この程度では困窮した農民を救うに十分でなかったことはいうまでもない。
写121 人足と馬 東海道五十三次之内「石部」(広重画)
(石部町歴史民俗資料館所蔵)