村高四二〇石余の東寺村は元禄七年に定められた石部宿大助郷二六ヶ村のひとつとして助郷役を勤めていた。宝暦(ほうれき)六年(一七五六)九月の豪雨により奥の山、谷の数ヶ所が崩れ、大小の石や土砂が押し出され、東寺村は村高の四分の一にあたる一一二石余が荒地となる大きな被害を受けた。廷宝(えんぽう)二年(一六七四)検地改めの際、事実上作付けのできない永荒高一三九石余があり、その上宝暦六年の荒地を加え、実際の作付け高は一八〇石余にとどまった。このような打撃を受けて東寺村庄屋らは宝暦七年、荒地をもとの田畑に回復し、村方も立ち直るまで助郷役を免除し、無役の村に代って勤めさせてほしいと願い出ている。その結果、宝暦八年五月から七年間、東寺村の助郷役は休役を認められ、休役分は代助郷として栗太郡小野(おの)村(村高五一八石五斗三升)・同郡蜂屋(はちや)村(村高八三〇石四斗五升一合)・同郡大橋(おおはし)村(村高六七二石六斗四升二合)の三ヶ村(惣村高二、〇二一石六斗二升三合)が新しく勤めることになった。東寺村では休役中の七年間に高六〇石分について、土砂を取り除き作付け可能な状態に復したが、残り高五一石余については、回復が困難であった。土砂を取り除いた部分へも遠方から肥土を運び、地力の回復につとめているが、なお他の田畑並みの収穫が期待できるものではない。そのため、東寺村はさらに七年の休役延長を願い出た。この時はそのままには認められなかったが、明和(めいわ)四年(一七六七)助郷役の減勤が認められた。旧来助郷役の勤高四二七石を一八一石六斗に減じ、免除高二四五石四斗を村高に応じて、前記三ヶ村が負担することになった。
東寺村の例にみられる助郷役休役の願い出は、石部宿助郷の他の村々についても多く事例をあげることができる。栗太郡林村も石部宿定助郷を負担する村であり、しばしば休役を願い出ているが、文政(ぶんせい)八年(一八二五)末に助郷役高七六三石五斗のうち、五〇〇石が免除され、その免除高は文政九年から一〇年間、石部宿付の総助郷村で負担する余荷(よない)勤とされた(『膳所領郡方日記』)。
幕末農村の疲弊が一段と深刻となるにつれて、減勤・休役の願い出も増してくるが、免除された分は余荷勤として他の助郷村の負担として転嫁されるか、あるいはこれまで助郷役の負担が課せられなかった差村に新しく負担として課せられるかのいずれかであり、助郷役の過重と拡散は宿駅との距離を問わず増すことになった。石部宿の助郷村で直接負担に関わる一揆などの動きは史料の上には見出せない。しかし休役の年期延長が認められなかった際、検分に派遣された役人の接待などに要した費用を償うよう、領主側に要求するという、したたかな対応を示す動きがみられる。林村の一〇年の休役年期が天保(てんぽう)七年(一八三六)切れるに際して、前年九月村役人らは年期延長を願い出たが却下された。しかし再度願い出た。天保七年林村検分のため道中奉行から論所地改手付ら四人の役人が派遣され、四人は四月二十二日から同二十九日まで村に滞在した。その間、筆紙墨、その他買物代銀四六七匁二分三厘、肴物代銀六五六匁七分六厘、席料・損料・茶代・挨拶物など金一一両三分、「御公役様江戸表御引取りの節御礼心当」金一〇両三分、さらに増菜分銀四六二匁、合計約金四七両の出費であった。この予測しなかった村の出費について、その全額を「ご憐愍(れんびん)をもって」下付してもらえれば、「重々ありがたき仕合せ」であると、代官に訴えている。出費中の役人へのお礼心当は、多分に事を林村に有利に取り計らってほしいとの含みのあるもので、それまでも領主側に払ってくれることを求めており、そのしたたかさぶりが察せられる(『膳所領郡方日記』)。