天保六年(一八三五)石部宿の助郷村々から馬一〇疋分の負担軽減を願い出たのを契機として、石部宿も馬三〇疋分について、助郷役を勤めていない手明きの村に転嫁するよう道中奉行に願い出た。第四章四節で詳述するように、結局石部宿の要求した宿立馬三〇疋のうち二〇疋分は、天保七年二月から一〇年間、宿周辺の手明き村二一ヶ村を宿付助郷として、新しく負担させることとした(表39)。年期明け以後も石部宿は宿付助郷の継続を要求したが、認められなかった。石部宿はその後執拗な要求を重ね、文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)三月、宿立馬三〇疋分については、新しく三二ヶ村が宿付助郷として負担することとなった(表41)。
幕末公私の通行が頻繁となるにともない、石部宿と助郷の村々は継立人馬の臨時の徴発、なかでも御用人馬の無賃通行の激増に悩まされた(表35)。
近世米価の動きを知る目安とされる大坂堂島の米相場をみると、元治(げんじ)元年(一八六四)秋以来米価は急騰を続け、このころ米一石(一八〇リットル)銀二〇〇匁前後であったものが、わずか二年後の慶応(けいおう)二年(一八六六)末には銀一貫三〇〇匁と六倍半にもなったが、その後ほぼ横ばいを続け翌年末には銀七〇〇匁前後に落ち着いた。慶応三年九月十三日人馬賃銭を元賃銭の七・五倍に増したが、米価の急騰に到底応じうるものではなかった。同日幕府は、旧来一般の宿泊賃より低額に抑えられていた御用賃銭による宿泊を廃止し、御用通行者には一人一泊銭七〇〇文を支給することにした。さらに将軍徳川慶喜(よしのぶ)の大政奉還直前十月五日、従来の余荷助郷と当分助郷を免除すると触れた。その後伊勢神宮への勅使参向、討幕軍の江戸への発向など火急の継立は昼夜絶えないありさまで、宿周辺は疲弊困憊の状態に陥った。このころ江戸・東海道の宿・京都などの各地で世直しを求める人たちが、「ええじゃないか」の囃子に合わせて乱舞する動きがみられた。
石部宿の助郷村では大通行の人馬触当にも容易に応ぜず、村役人らも種々異議を申し立て、その上これまでの助郷の勤不足賄金六、〇〇〇両余の支払いも渋り、金銀融通の手段もつき果てる状態であった。石部宿問屋は一端助郷役を免除された野洲郡安治村をはじめとする三六ヶ村に対し、当分助郷を勤めるよう「御尊判」をもって命じること、さらに前記の賄金未払いの村には金子の調達をするよう命じること、この二点を慶応四年(明治元年・一八六八)二月政府の参与御役所に嘆願した(『石部町史』)。嘆願して間もない同年五月八日、新政府は助郷制度を改め、宿駅周辺の村は天領・宮家・堂上方領・社寺領の別なく、東海道は七万石、中山道三万五、〇〇〇石、その他脇街道一万石を目安として高四〇パーセントの勤め高として、とりあえず一年間平等に助郷役を負担することに定めた。石部宿には甲賀郡石部村をはじめとする二四ヶ村、蒲生郡四七ヶ村、栗太郡一八ヶ村、野洲郡三ヶ村、河内大県郡一四ヶ村、同古市郡一五ヶ村、同安宿部郡五ケ村が付属することになった(表28)。しかしこの新しい負担を水損を理由に拒み、あるいは難渋を申し立てる村も少なからずあった。新付属助郷村については、当面一年とし、その間に永世の良法を確定しようとするものであったが、翌明治二年(一八六九)五月その期限が切れ、なお更改しようとした際、村役人らは「ひとまず帰村之上小前末々迄、御趣意柄篤と申し聞かせ」(「朝領駅逓局より御達并ニ御用向差配万機都明録」『藪内吉彦氏文書』)ねばならず、即座に請印できる状況ではなかった。
表28-① | 石 斗升合 | | 石 斗升合 |
甲賀郡 | | 荒張村 | 728,321 |
石部宿 | 1781,328 | 観音寺村 | 152,201 |
杣中村 | 438,377 | 井上村 | 156,082 |
杉谷本 | 1420,571 | 東坂村 | 255,656 |
岩根村 | 1504,671 | 上山依村 | 402,361 |
妙感寺村 | 347,726 | 金勝中村 | 580,006 |
三雲村 | 583,604 | 上砥山村 | 889,372 |
吉永村 | 515,984 | 蜂屋村 | 830,451 |
山夏見村 | 777,336 | 小野村 | 518,530 |
夏見村 | 370,625 | 蒲生郡 | |
針村 | 436,896 | 駕与丁村 | 416,731 |
柑子袋村 | 1271,458 | 薬師村 | 692,584 |
東寺村 | 454,694 | 新巻村 | 159,035 |
西寺村 | 352,499 | 橋本村 | 1239,000 |
菩提寺村 | 901,009 | 鈴村 | 308,790 |
正福寺村 | 771,588 | 川守村 | 810,249 |
朝国村 | 382,753 | 岩井村 | 582,150 |
岩坂村 | 105,556 | 川上村 | 159,010 |
高山村 | 278,740 | 宮井村 | 382,802 |
三大寺村 | 729,524 | 外原村 | 282,360 |
牛飼村 | 718,456 | 弓削村 | 1104,660 |
山上村 | 401,820 | 上南村 | 242,590 |
塩野村 | 391,981 | 山中村 | 268,500 |
市原村 | 234,873 | 林村 | 1124,540 |
平松村 | 455,070 | 七里村 | 466,530 |
栗太郡 | | 鵜川村 | 687,390 |
六地蔵村 | 1244,723 | 信濃村 | 380,247 |
大橋村 | 672,642 | 岡屋村 | 1888,760 |
土村 | 381,404 | 宮川村 | 582,316 |
今里村 | 141,772 | 小囗村 | 997,549 |
小坂村 | 316,117 | 蒲生堂村 | 486,023 |
辻村 | 613,965 | 小中村 | 332,090 |
林村 | 918,836 | 綾戸村 | 755,623 |
伊勢落村 | 359,083 | 嶋村 | 284,058 |
出石村 | 2149,045 | 須恵村 | 626,876 |
表28-② 明治元年(1868)5月石部宿新付属助郷村 | 石 斗升合 | | 石 斗升合 |
山ノ上村 | 2123,940 | 大県村 | 439,429 |
田中村 | 399,680 | 大平寺村 | 331,205 |
池田村 | 1032,000 | 安堂村 | 249,580 |
古川村 | 1232,240 | 高井田村 | 276,473 |
増田村 | 420,493 | 青谷村 | 407,724 |
西鍛治屋村 | 165,265 | 峠村 | 102,909 |
東鍛治屋村 | 288,310 | 雁多尾畑村 | 1397,602 |
土田村 | 1131,204 | 南畑村 | 292,864 |
東村 | 534,500 | 北畑村 | 471,011 |
南津田村 | 829,525 | 本堂村 | 74,344 |
寺内村 | 375,692 | 古市郡 | |
小舟木村 | 287,480 | 古市村 | 1125,679 |
西出村 | 308,283 | 誉田村 | 914,989 |
田中江村 | 226,848 | 碓井村 | 588,035 |
西畑中村 | 258,748 | 軽墓村 | 308,6511 |
東畑中村 | 352,329 | 西浦村 | 964,769 |
十林寺村 | 442,458 | 蔵之内村 | 402,112 |
牧村 | 1032,649 | 西坂田村 | 164,469 |
東中小路村 | 224,526 | 新家村 | 124,367 |
西中小路村 | 243,009 | 東坂田村 | 196,854 |
小西村 | 509,268 | 新町村 | 238,494 |
大房村 | 613,929 | 壺井村 | 344,021 |
野洲郡 | | 通法寺村 | 201,686 |
南桜村 | 710,798 | 飛鳥村 | 395,102 |
北桜村 | 522,484 | 駒ヶ谷村 | 420,000 |
三上村 | 1377,256 | 大黒村 | 348,040 |
河内国 | | 安宿部郡 | |
大県郡 | | 国分村 | 1480,021 |
北法善寺村 | 335,495 | 片山村 | 349,903 |
南法善寺村 | 336,488 | 玉手村 | 330,000 |
神宮寺村 | 338,955 | 北圓妙村 | 247,394 |
平野村 | 369,898 | 南圓妙村 | 182,589 |
慶応4年5月「御印状写并諸手控」『山本恭蔵家文書』、『旧高旧領取調帳』、『天保郷帳』により作成。 |
宿と助郷村の負担が目まぐるしく変動する中で、宿と助郷村、助郷村相互の連係が十分でなく、宿継ぎに支障を来し兼ねない事態もままあったが、このような混乱は明治五年(一八七二)八月助郷課役の廃止まで続いた。