近江国の各郡と石部三村の石高変遷を示したのが表29である。まず、近江国全体の傾向を検討すると後期に石高の上昇がある。これは畿内にみられる三度の隆盛期の一般的傾向とは一致しない。また、表から読み取れるように開発が盛んであったのは、野洲・栗太・甲賀の湖東三郡を中心とした地域である。これは、野洲川が形成する氾濫原の開発が主であり、新田開発といっても頻繁に洪水を起こす野洲川との闘いの結果によるものであったことを示している。
(1624~43)① | (1688~1703)② | (1818~29)③ | (1831)④ | (1870)⑤ | |
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犬上郡 | 60,879 | 60,879 | 60,879 | 61,981 | 62,137 |
愛知郡 | 64,243 | 64,319 | 64,295 | 64,666 | 64,845 |
神崎郡 | 47,317 | 47,877 | 47,631 | 48,303 | 48,583 |
蒲生郡 | 134,909 | 136,324 | 138,901 | 139,585 | 139,733 |
野洲郡 | 61,272 | 65,361 | 65,948 | 66,901 | 68,556 |
栗太郡 | 65,054 | 64,573 | 65,948 | 68,292 | 70,372 |
滋賀郡 | 47,061 | 45,314 | 45,560 | 45,989 | 46,143 |
高島郡 | 73,099 | 73,968 | 73,801 | 74,026 | 74,151 |
伊香郡 | 35,750 | 36,024 | 36,243 | 36,248 | 36,243 |
浅井郡 | 75,341 | 76,209 | 76,646 | 76,680 | 76,877 |
坂田郡 | 89,634 | 90,638 | 91,845 | 92,290 | 92,104 |
甲賀郡 | 75,102 | 75,838 | 76,823 | 78,128 | 78,775 |
合計 | 708,158 | 777,824 | 844,520 | 853,084 | 858,519 |
石部 | 1,557.818 | 1,556.214 | 1,662.009 | 1,687.492 | 1,781.328 |
東寺 | 427.135 | 427.131 | 432.705 | 432.705 | 454.694 |
西寺 | 341.500 | 343.100 | 347.726 | 352.499 | 352.499 |
甲賀郡は、畿内の先進地域で平野は古代から開発が進み、その他山がちの地形にもかかわらず、近江国の傾向と同じく近世後期に三、六〇〇石余の増加をみている。このことは、先人の多くの努力を伝えるものといえよう。もちろん、この石高の増加は新田開発によるものばかりではなく、生産技術の飛躍的な進歩と検地の徹底によってもたらされた点もあった。
次に、石部・東寺・西寺三村の石高変遷についてみる。東寺・西寺は石高の上昇があまりみられず、石部のみが近世中期以降に一三パーセントの増加を示している。これは、甲賀郡の一般的な傾向よりも早く新田開発が進んだことを示すものか。
新田開発をその立地する地形的条件からみると、野洲川の氾濫原と山間支谷とに分けられる。いずれも不利な自然条件を克服することになる。また、開発の方法も荒蕪地を新たに開発するいわゆる新田開発と、耕地が災害などによって荒地化し、それを再開発する起返(おこしがえし)、あるいは起田(おこしだ)と呼ばれる開発とに分けられる。さらには、開発の主体者によってもさまざまな新田の形態がみられる。次に具体的事例をとりあげてみよう。