新田開発と石高の増加

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近世に入ると、世情の安定や土木技術の進歩などにともなって多くの新田が開発された。日本全体の動向をみるに、一六世紀末の太閤検地の結果から推定される慶長三年(一五九八)の石高は、一八五一万石であるのに対し、明治六年(一八七三)では三、二四三万石である。石高の増加を単純に開発に結びつける訳にはいかないが、この数字は近世が大開拓時代であったことを物語るものといえよう。その増加の変遷も大まかに近世前期・中期・後期の各一時期に急増期を迎えている。
 近江国の各郡と石部三村の石高変遷を示したのが表29である。まず、近江国全体の傾向を検討すると後期に石高の上昇がある。これは畿内にみられる三度の隆盛期の一般的傾向とは一致しない。また、表から読み取れるように開発が盛んであったのは、野洲・栗太・甲賀の湖東三郡を中心とした地域である。これは、野洲川が形成する氾濫原の開発が主であり、新田開発といっても頻繁に洪水を起こす野洲川との闘いの結果によるものであったことを示している。
表29 近江国における石高の変遷
寛永期元禄期文政期天保2年明治3年
(1624~43)①(1688~1703)②(1818~29)③(1831)④(1870)⑤
犬上郡60,87960,87960,87961,98162,137
愛知郡64,24364,31964,29564,66664,845
神崎郡47,31747,87747,63148,30348,583
蒲生郡134,909136,324138,901139,585139,733
野洲郡61,27265,36165,94866,90168,556
栗太郡65,05464,57365,94868,29270,372
滋賀郡47,06145,31445,56045,98946,143
高島郡73,09973,96873,80174,02674,151
伊香郡35,75036,02436,24336,24836,243
浅井郡75,34176,20976,64676,68076,877
坂田郡89,63490,63891,84592,29092,104
甲賀郡75,10275,83876,82378,12878,775
合計708,158777,824844,520853,084858,519
石  石  石  石  石  
石部1,557.8181,556.2141,662.0091,687.4921,781.328
東寺427.135427.131432.705432.705454.694
西寺341.500343.100347.726352.499352.499
①~③は滋賀県立図書館所蔵の「石高帳」、④は『天保郷帳』、⑤は『旧高旧領取調帳』による。

 甲賀郡は、畿内の先進地域で平野は古代から開発が進み、その他山がちの地形にもかかわらず、近江国の傾向と同じく近世後期に三、六〇〇石余の増加をみている。このことは、先人の多くの努力を伝えるものといえよう。もちろん、この石高の増加は新田開発によるものばかりではなく、生産技術の飛躍的な進歩と検地の徹底によってもたらされた点もあった。
 次に、石部・東寺・西寺三村の石高変遷についてみる。東寺・西寺は石高の上昇があまりみられず、石部のみが近世中期以降に一三パーセントの増加を示している。これは、甲賀郡の一般的な傾向よりも早く新田開発が進んだことを示すものか。
 新田開発をその立地する地形的条件からみると、野洲川の氾濫原と山間支谷とに分けられる。いずれも不利な自然条件を克服することになる。また、開発の方法も荒蕪地を新たに開発するいわゆる新田開発と、耕地が災害などによって荒地化し、それを再開発する起返(おこしがえし)、あるいは起田(おこしだ)と呼ばれる開発とに分けられる。さらには、開発の主体者によってもさまざまな新田の形態がみられる。次に具体的事例をとりあげてみよう。