下川四郎兵衛の開発

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石部の新田開発で最も早く行われたのは、野洲川の氾濫原の開発である。起田(しんでん)の氏神である川崎神社は『甲賀郡志』によると萬里川七郎兵衛が起田村を起こしたと同時にそこに祀ったとある。検地帳などから新田開発に関係すると考えられる地名をみると、その始まりは元禄期ごろと推定できる。『由緒書』においても下川一郎兵衛が、元禄(げんろく)六年(一六九三)から開発したと記されている。
 『由緒書』の下川一郎兵衛は、下川四郎兵衛の誤まりと考えられる。起田の墓地には、下川四郎兵衛とその妻の墓がある。墓碑名によると表に「新田先祖」とあり、裏に四郎兵衛の没年を、宝永(ほうえい)七年(一七一〇)十月としている。また、善隆寺の「過去帳」にも同年十月十三日が命日で「新田開発人也」とある。さらに文化十二年(一八一五)の「田畑名寄帳」(『石部町教育委員会所蔵文書』)にも「下川四郎兵衛右新田開発元人是也」とある。下川四郎兵衛は、実在の人物であり、新田開発の指導者的人物であったことが知られる。具体的な開発の状況を伝える資料は乏しいが、古代の条里型地割がみられない野洲川の氾濫原の荒地に開発の手が入ったものと思われる。現在の起田の集落もこの時期には成立したものと推測できる。このように、起田は新しく村をつくっているのでおそらく村請新田に属するものと思われる。またその内容からみれば、石部村の中に起田村が含まれていることから子村(こむら)新田といえよう。

写122 下川四郎兵衛墓碑 表には「新田先祖」と刻まれ、その下に戒名がある。裏には、四郎兵衛の没年宝永7年(1710)と、妻の没年享保2年(1717)、及び施主「新田中」と記されている(起田墓地)。