またこのほかに、東寺村でも開発が行われた。具体的状況がわかる東寺村の卯立井組の一一人の農民による開発を検討したい。
これは、宝暦(ほうれき)七年(一七五七)から開始され同九卯年に完成した開発である。この開発は、川欠・川成(河川の氾濫により生じた荒地)の再開発で、起返と称されるものである。これはいったん高請された耕地が荒廃したものをあらためて再開発することをさす。
東寺村では、宝暦六年九月の大洪水による山崩れのために、一五町三反七畝二四歩、一一二石に及ぶ川成が生じた。さらに、宝暦七年の三月七日及び七月二十五日の洪水によって二石の川欠ができた。これに対して、宝暦七年に二〇石余、同八年に三〇石余、同九年九石余、計六町に及ぶ再開発が行われた。
この開発地の地名をみると、天井川である落合川の流域に分布している。特に、石部村との村境付近の岩崎・セブ田・尾崎・西浦などの山稜が東西から迫る狭隘部に、多くの開発が行われた。このことから、禿山である阿星山から落合川に流出した土砂による災害で川成・川欠になった土地を開発したものと思われる。
以上のように、新田開発は河川氾濫により荒廃した耕地の再開発も多かった。また「卯立井組」一一人の農民の共同による開発であり、百姓寄合新田と呼ばれるものであった。