古道新田

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これと同じケースの新田開発として、石部古道(ふるみち)新田の場合があげられる。寛保(かんぽう)二年(一七四二)八月の野洲川大洪水の時に、一町余りの川欠を生じた。図45―①は、その洪水以前の地割を示した絵図である。それに対して、図45-②は、宝暦九年(一七五三)から同十一年にかけて再開発されたあとの地割であり、図45―③は現在の開発地付近の地割である。
 図45―②によると、それまで図45―①ではA~Bへと直線的に通過していた東海道を、宝暦九年にa~bと野洲川を避け、迂回して通した。さらに、北西からほぼ順番に南東へと開発を進めている。まず一年目には、荒廃化が少なかった耕地の畔直しを行い、次の二年間は起返を行った。このようにして、寛保二年以前の方形に近い地割を短冊型に改め、さらに水路も整備し、再開発が完了した。

図45 古道新田の起返開発
①・②の絵図は『膳所領郡方日記』慶応元年(1865)の絵図より一部省略して作図
図45-① 寛保2年(1742)8月以前の古道新田の地割
(……線内は水害で川成になった範囲)


図45-② 「古道新田起返新絵面」
(宝暦9~11年の古道新田の地割)


図45-③ 現在の古道新田の地割
(……線は、②の絵図の範囲推定線)

 このほかにも野洲川の水害の記録が数多くみられ、これにともなって再開発が行われた。まさに耕地の維持は河川との闘いであった。