町人請負新田

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近世後期になると、石部宿に貯えられた経済力を背景として商人による新田開発が行われた。このことは、石部宿の特徴を考える上でも重要である。
 ここでは、具体的状況を知るために、天保六年(一八三五)の「新田畑改帳」と、年不詳ではあるが、近世のものと考えられる「新田名寄(なよせ)帳」・「起田名寄帳」(『石部町教育委員会所蔵文書』)から分析を試みたい。
 天保六年の「新田畑改帳」には、一一〇人に及ぶ開発に参加した人名がみられる。その開発総面積は三四町四反七畝三歩であり、字単位でみると表30となる。西河原・東河原だけで約五〇パーセントの面積が開発されており、現在の字東河原一帯が開発の中心であったものと考えられる。
表30 天保6年(1835)大字石部の小字単位の新田開発面積
小字面積小字面積
甲斐森1町6反5畝18歩八代山3反3畝 9歩
狐谷1町0反7畝15歩口山田2反8畝15歩
御前3反9畝18歩茶屋裏2反0畝 6歩
中山田8反4畝15歩奧山田5畝21歩
格谷3反9畝 9歩南山田2反0畝 6歩
宮の森2町1反1畝15歩宮ヶ谷3反6畝18歩
中島2町9反5畝24歩池ヶ沢5反9畝 3歩
古道2町3反5畝27歩浦ヶ島5反2畝12歩
東河原4町1反6畝 3歩茨田8反2畝 9歩
西河原13町4反7畝24歩宝来坂8反2畝 0歩
西坂東4反5畝 3歩品ノ前3畝21歩
大堤3反8畝18歩
34町4反7畝3歩

 この付近は、落合川が野洲川と合流する氾濫原にあたり、空中写真から旧流路が数多く判別できることから、荒地が広がっていたと推測できる。また山間部の、狭い谷間にも規模は小さいが新田開発が行われている。栗東町に抜ける金勝寺道に沿った字宝来坂(ほうらいざか)・狐谷(きつねだに)(現在の石部中学校・石部南小学校付近)が開発され、そこでは二町程度の新田が生まれている。
 次に、「新田名寄帳」・「起田名寄帳」から、開発を行った主体者についてみる。「新田名寄帳」二冊については、石部村全体のものが残されている。しかし「起田名寄帳」については、宿場内の大亀町より以東の地域の一冊のみであり、全貌を検討することはできないが、傾向をみることは可能である。「名寄帳」には、一六一人の名請人がみられる。その中には、宿場の各町や講名のものや、「組合田」などの名がみられる。
 最も特徴的なものは、宿場内に居住し新田開発を行っているものが一三一人で、新田開発の名請人の八一パーセントを占めていることである。このすべてが、一時期の名請人とは考えられない。そこで、享和(きょうわ)三年(一八〇三)「往還通絵図」、文政十一年(一八二八)「石部宿町並図」、文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)「宿内軒別絵図」、明治二年(一八六九)「宿内軒別絵図」の四時期の絵図の人名及び職業と対比したのが表31・表32である。宿内の約三五パーセントが新田開発に参加している。その職業をみると、農民は二一パーセントで、商人が多いことがわかる。その職業も一六種に及んでいる。中でも旅籠屋が多いことに注目される。
表31 石部宿の軒数と宿内の新田・起返開発人数
絵図にみる宿内の軒数新田起返に参加した人数
享和3年(1803)「往還通絵図」383軒54人
文政11年(1828)「石部宿町並図」260軒60人(百姓10人)
文久2年(1862)「宿内軒別絵図」462軒60人(百姓10人)
明治2年(1869)「宿内軒別絵図」491軒46人

表32 新田・起返の宿内参加者の職業
職業人数職業人数
旅籠屋12酢屋1
百姓10酒屋1
米屋6傘屋1
肴屋3質屋1
本陣2醤油屋1
荒物屋2煮売屋1
問屋役2豆腐屋1
医者1人足指1
小間物屋147(不明13人)
文政11年(1828)「石部宿町並図」及び文久2年(1862)「宿内軒別絵図」による。

 一般的に新田は、鍬下年季(くわしたねんき)といって一定期間年貢を免じ、あるいはごく軽く取りたて、土地の開発に優遇措置を与えた。
 町人請負新田は、商業資本を背景にして開発を行い、この鍬下年季の期限をできる限り引き伸ばし減価償却し、さらには、小作農を使い利潤をあげようとするものであった。
 石部宿の町人請負新田は、畿内の近世後期における先進的新田開発の特徴である商業資本による小規模な多くの新田を生む典型的事例であり、石部宿の繁栄と、商人の経済力の一端を物語るものである。